エッセイ 独り言

2021年

2021年4月2日、第三十三回エッセイ、ウイークリーえひめリックに掲載
「牛(丑年)」

皆さま、
こんにちは、
第33回エッセイです。暫く新聞紙上に載るエッセイとしては休憩することになりました。日本の人々に届ける身近なオーストラリア情報として、読んで頂き楽しんで両国の違いや、似たところなどを共有できればとの思いから2018年の12月の始まりました。
これより先も、私の勝手な呟き、独り言として載せますので請うご期待なら、幸いです!



2021年3月5日、第三十二回エッセイ、ウイークリーえひめリックに掲載
「我が家の野鳥たち」

皆さま、
こんにちは、秋らしくなって参りましたね、今朝などは気温16℃、爽やかな風の中での散歩でした。
秋を感じながら、季節の巡りを実感しながらでした。
日本では大雪の冬だったようですから、春が楽しみですね。



2021年1月29日、第三十一 回、ウイークリーえひめリックに掲載
「東京オリンピック」

皆さま、
新しい年が明けました、お元気でお過ごしでしょうか?
現在では元気で生活することさえも困難になってきている難しい社会になっていますね。
私のとても親しい友人の清水利子さんが昨年12月18日に逝去され、悲しみに暮れておりましたが、
この度、友人の山下さんと清水さんのお力をお借りして「清水利子さんを偲ぶ会」を、2月17日に

だるまレストランにて開催することが決まりましたのでお知らせ申します。利子さんとの思い出を
皆で分かち合いませんか!

 


2020年

2020年12月25日、第三十 回、ウイークリーえひめリックに掲載
「三十四回目のクリスマス」

皆さま
コロナ禍の中、クリスマスを迎え、そして年末年始と移動の季節ですが、オーストラリアから日本へは帰国できません。とても寂しいことです。
そして私にとりましては、親友でございました清水利子さんが12月18日に永眠されました。お元気だった利子さんでしたが、病んで僅か3ヵ月であっという間に天国へ。魂はきっと日本へ飛んで帰っていることでしょう。 ほんとうに潔く生きた彼女の73年間の人生でした。

 



2020年12月11日、第二十九 回、ウイークリーえひめリックに掲載
「日本の秋の果物」

皆さま、2020年、寂しい年となりましたが、来年は明るい良い年になりますように!

移住した当時は、オーストラリアには蜜柑も柿も売ってはいなかったし、柿は野生の柿はあった
ようだが蜜柑は無かった。オレンジの大活躍の時代であった。今は美味しい蜜柑がお店で買える
よい時代になった。



2020年11月20日、第二十八回、ウイークリーえひめリックに掲載
「日本語って、いいなぁ」



2020年10月9日、第二十七回、ウイークリーえひめリックに掲載
「プリンターが壊れた」

皆さま
お元気でお過ごしでしょうか?
今年は過ごし易い日々が続き、春から夏へのスピードがゆっくりですね。コロナ禍の中あまり遠出も出来ずにいますが、突然プリンターが壊れてしまい、其処にあれば当たり前に使い、無くなって初めてその重要さに気づいた次第です。



2020年9月25日、第二十六回、ウイークリーえひめリックに掲載
「我が家の庭に、春が来た!」

皆さま、おはようございます。
爽やかな朝です、ポチの散歩で歩いていると、藤が満開で素敵な香りがするし、クラブアップルも満開です。やっぱり春は素敵です!

 



2020年8月21日、第二十五回、ウイークリーえひめリックに掲載
「何時の間にか変わってきた対岸の風景」

皆さま、こんにちは
又あっという間に1ヵ月が過ぎて、第25回エッセイを載せることになりましたが、何も成就しないままに、2020年が終わるのではないかと恐怖を感じるのは、私だけなのだろうかと焦る日々となっています。
春の花でも眺めて心穏やかにと庭を眺めながら、、、です。


 



2020年7月24日、第二十四回、ウイークリーえひめリックに掲載
「読書」(することがないから、日本語の本を読み漁る日本人たち)

皆さま、こんにちは
朝晩の寒い中、如何お過ごしでしょうか?
私の尊敬する数学者の藤原正彦先生の、2020年3月発売のご本「本屋を守れ」を、中西先生からお借りして読んだが、100%筆者の考えと一致していて可笑しいのだが、、、彼のご本は何時も楽しいし、彼のお父さまのご本の読者でもあったので、寧ろ懐かしさえ感じる。皆さまも是非、このコロナ禍の中で、散歩と読書をと思う次第です。

 



2020年6月26日、第二十三回、ウイークリーえひめリックに掲載
「姉妹都市交流」

東京都江戸川区との姉妹都市の盟約を結んで早くも32年を超えた。筆者の移住の明くる年のことであったから、強烈な印象で今でも昨日のことのように思い出される。
オーストラリアと日本との姉妹都市が、次々とできたまるで流行りのような感じだったのを覚えている。その中でも江戸川区とゴスフォード市は、市民の交流が盛んで嬉しい日々を過ごすことができた。お蔭で日本語も忘れずに在り難い結果となった。

 



2020年5月22日、第二十二回、ウイークリーえひめリックに掲載
「言葉」

人類が何時頃から言葉を使って、他人との対話を始めたかは調べても解らなかったが、たぶん何万年か前だろうと思う。文字が先か?言葉が先かは別として、絵文字の形はずいぶんと古いようだ。今ではネットなどで使われる新語についてゆけない悲しさもあるにはあるが。
この国で、日常は英語を使っているが、日本語も書いたり読んだりではほとんど毎日使っている。日本語は素敵な言葉だと自負しているが、皆さまは如何でしょうか?

 



2020年4月24日、第二十一回、ウイークリーえひめリックに掲載
「世界はどう変わるのか?」

この写真にあるように、シドニー市内の地下鉄のメイン駅の一つでもある、ウィンヤード駅に人が誰も居ないことに、今回の新型コロナウィルスの世界的影響を見ることができるだろう。友人の山下氏が提供してくださった写真である。
「Covid-19」こんな名称は100年後の人々には、何も伝わらない。いや10年後でもダメだろう。きちんと中国の武漢市から始まったウィルスであることを、そして世界中に感染者が広がり、多くの健康な人々が亡くなられたことを記録しておきたい。世界の経済も尋常ではないことも記録しておきたい。




2020年3月27日、第二十回、ウイークリーえひめリックに掲載
「新型コロナウィルスに怯えながら」

皆さまおはようございます。
昨日、無事に日本から帰って参りました。ANA便でしたが乗客僅か30人(12%)というありさまで、今回のコロナウィルスの影響が如何に大きいかを改めて知ることになりました。3月5日に帰国した時は、オーストラリア入国は何時もと変わることは無かったのですが、今回3月26日は全然違っておりました。僅かに20日です、空港で体温検査や2週間の自宅謹慎を命じられました。家を一歩でも出ると11,000ドルの罰金を科せられます。また支払われなかった場合は収監されるようです。私は感染はしておりません。
皆で、
このコロナウィルスに気をつけましょう。そして早い終息を祈るばかりです。頑張りましょう!



2020年3月6日、第十九回、ウイークリーえひめリックに掲載
「上昇する物価について」

皆さま、おはようございます。
毎月楽しみに読んでくださっている方から、嬉しいメールを頂きました。此処オーストラリアに住んでいる日本人として何ができるか?と何時も考えている。やはり大した事などできる訳では無くて、オーストラリアと日本の違いや同じような事柄などを知って頂くことかなと思い、感じたまま、見たままを書いている。

 



2020年2月21日、第十八回、ウイークリーえひめリックに掲載
「オーストラリアの森林火災」

昨年9月から燃え続けた森林火災だが、何と今月6日から降り始めた雨が、8日と9日の大雨とその後も
降り
続いた
お陰で我が街は洪水となり、停電になり孤立した家もあったりとたいへん厳しい自然に翻弄された。
火と水、無くてはならないものだが、この森林火災で凡そ四国と九州全体が焼失した広さだと読んだが、
私たち人類が温暖化を進めているのだろうか?丁度よいはなかなか無いのか?

 

2020年1月17日、第十七回、ウイークリーえひめリックに掲載
「不思議に親日の街ダーウィン」

皆さま、遅ればせながら新年のご挨拶と第十七回のエッセイのお知らせでございます。森林火災の広がりに注意が必要です。日本のさまざまな震災や水害の時も、身体の震えが止まりませんでしたが、今回のオーストラリアの山火事は今までに経験の無い各州で発生していることです。特に我が州ニューサウスウェールズ州は甚大な被害が出ております。ビクトリア州、南オーストラリア州と恐ろしいことになっております。
被害は、既に北海道を超えて韓国の国土が焼けてしまった広さになっているようです。

年の初めからこのような報告で始まったエッセイを、申し訳なく思いながら載せましたが、内容は明るい話で日本とオーストラリアを繋ぐものです。

2019年

2019年12月27日、第十六回、ウイークリーえひめリックに掲載
「トンネルが好き」

皆さま、今年最後のエッセイとなりますが、今年は皆さまにはどのような年となったのでしょうか?
私には異常な速さで過ぎてしまった1年だったように思います。以前日本に住んでいる頃、ボスの奥さまが
「人は、しじゅう(40歳)を過ぎれば、回転しながら坂を転げ落ちていく速さで谷底(死地)へ到達する」
とおっしゃったことが、この頃よく理解できるようになった。当時は理解もできず笑い転げていたのだが。
来年2020年、何とか今年の失敗を心に刻み、少しは実りある年にしたいと願っています。
皆さま、どうか素晴らしい年末年始をお過ごしくださいませ。ご健康とご多幸をお祈り致します!



2019年12月6日、第十五回、ウイークリーえひめリックに掲載
「日本開催ラグビーワールドカップ」

第9回のラグビーワールドカップが日本で開催された。そして日本チームは4勝もしたのだ。その結果が
世界第6位にまでなってしまった。これは奇跡かと思ったがそれは違った。入念な準備と練習、チーム
全員のモチベーションの高さもずぅ~と継続して、長丁場を乗り切ったようだ。
素晴らしかった、凄かったと多くの情報が入って来る度に俄ラグビーファンの筆者も、嬉しくて応援に

力が入ったものだ。夢見るだけで終らず、チーム全体の努力の賜物が世界を昂奮させたのか?



2019年11月15日、第十四回、ウイークリーえひめリックに掲載
「ホームステイ」
 
今年の八月には、十数年ぶりに日本からの中学・高校生をシドニー空港で迎えて、午後四時にホストファミリーに迎えてもらうまで一緒に行動した。実に良い子たちばかりで、流石は一流私立学校の生徒たちだと思った。実に行儀が良くて雰囲気が穏やかなのだ。それに元気で明るいし楽しい時間であった。久しぶりの日本語三昧の一日でもあった。



2019年10月25日、第十三回、ウイークリーえひめリックに掲載
「我が州の電車と代替バスにて」

今月は、電車の話にしてみた。過日シドニーから帰りの電車での経験だが、実にオーストラリア人の真骨頂とも言えるジョークに大爆笑になって、バスの中が和やかになったのは見事な切り替えの言葉であった。
電車は停まり、代替えバスも遅れて皆イライラとした雰囲気であったから、あのタイミングは素晴らしかった。つくづくよい国だなぁと思ったものだ。



2019年9月27日、第十二回、ウイークリーえひめリックに掲載
「オーストラリア人の名前」

遠い昔の思い出であるが、移住を決めた時の最後のテストが、オーストラリア大使との面接であった。

大使が「ジョン」だと言って右手を差し出した。握手をして隣の移民係の方も「ジョン」だと挨拶して、
その時大使は、冗談だと言いながらも笑顔で、オーストラリア人の半分は「ジョン」だからと言った。
後に家族になった相方が、舅とその兄、主人もやはり「ジョン」だった。



2019年8月9日、第十一回、ウイークリーえひめリックに掲載
「穣の一粒」(米と本)

オーストラリア米の父として、この国で高く評価されている高須賀穣の物語「穣の一粒」を2015年に発表した。住友商事の5キロ入りオーストラリア米の日本国内販売の商品名でもある。このお米が安くて美味しいとの評判を得ている。関東地方での良い評価が、九州へと。そうなれば松山でもと期待が大きく膨らんできている。実現すれば直ぐに飛んでゆきたい気持ちになっている!



2019年7月19日、第十回、ウイークリーえひめリックに掲載
「怖かった真夏の思い出」(熱中症について)



2019年6月28日、第九回、ウイークリーえひめリックに掲載
「出国と入国に関して」



2019年5月31日、第八回、ウイークリーえひめリックに掲載
「季節は逆、南半球の秋から冬へ」


2019年5月24日、第七回、ウイークリーえひめリックに掲載
「水の使い方」



2019年4月19日、第六回、ウイークリーえひめリックに掲載
「オーストラリアの学校」



2019年3月28日、第五回、ウイークリーえひめリックに掲載
「ご飯の話」


2019年2月21日、第四回、ウイークリーえひめリックに掲載
「国際交流と国歌」


2019年1月31日、第三回、ウイークリーえひめリックに掲載
「Roundabout(環状交差点)」




2019年1月10日、第二回、ウイークリーえひめリックに掲載
「我が家のポチ」


2019年

長期に渡り休んでしまいましたが、「愛媛新聞社発行の週刊生活情報紙」にエッセイを書かせて頂く
ことが決まりまして、オーストラリアに住む日本人の目から見た、両国の違いなどを載せたいと思い
ます。
2018年12月13日、第一回、ウイークリーえひめリックに掲載
「オーストラリアの人々の生き方」

2018年

第37回 2018年9月25日
「偶然の点の続き」

 愛媛新聞サービスセンターから、2018年9月25日筆者の最新作「偶然の点の続き」
が出版されることになった。
 この小説も、日本とオーストラリアを繋ぐ物語で、かなりの場面で事実を調べて
織り込んでいった。オーストラリアに在住する日本人として、何ができるかを何時
も考えているが、年齢を重ねた今となっては大して役に立つことなど何も無い。
 そこで筆者が考えたことは、今も多くの日本人が移住して、また仕事で駐在員と
して暮らしているこの国であるから、日本とオーストラリアを繋げるお役に立てな
いかと考えた訳であるが。

 明治時代から海外へ移住した日本人たちがいた。アメリカやオーストラリアそして

ブラジルなど、新大陸へと移住してそこで生き抜いた私たちの大先輩たちの事を著し
てみたいと思った。 
 前回は、オーストラリア米の父として、この国でパイオニアとして高く評価され
尊敬されている高須賀穣について書いた「穣の一粒」である。日本でほとんど知ら
れることが無かった偉人である。
 今回は、西オーストラリア州のブルームでの真珠貝ダイバーについて書いた。
そして全盛期には日本人町には2000人もの人々が暮らした記録を調べながら、レンタ
カーで走り回った広大な大地の記憶を辿った。2週間余りの滞在のあと州都のパース
でも10日ほど過ごしたが、100年余りも前のことに思いを巡らせたけれど、厳しい海底
での仕事以外では、明るい日本人社会だったようで心が和んだことはあり難かった。

 宜しかったら手に取って読んで頂ければ、この上なく幸せで感謝申し上げます。







第36回 2018年8月15日
お盆(墓参りと娯楽について)

 今日は8月15日、日本ならお盆の送り火の日。日本らしい先祖への想いが伝わるし
とても懐かしい。迎え火が13日で、先祖が皆そろって家に帰って来るので、お盆は
賑々しく大勢の人でいっぱいになると、大喜びで先祖を迎えていた父を思い出す。
 私が生まれた時に、父方の祖父母は既に亡く、母方も祖父は既に身罷り、従って
筆者が実際に会った祖父母は、母方の祖母一人だった。
 迎え火は、重箱に夏野菜の胡瓜や茄子を入れて、お墓に迎えに行った記憶がある。
はっきりとは覚えていないが、父が一人一人の墓に声をかけて皆を連れ帰ったよう
だが、子供だった筆者には先祖の顔が浮かばない人ばかりで残念に思ったものだ。
 昔は一人一墓だったから、もう名前も読めないほど古い墓もあり、大きな立派な
墓や、お地蔵さんが座っているような小さなものもあったから、たぶん小さな子ども
の墓だったのではと、今になって思う。

 戦後生まれの筆者に、昔話を語ってくれたのはもちろん母方の祖母であるが、苦労
しただろう戦中戦後の話は無かった。祖母の物語は実に面白くて読んでいる本を投げ
出して、物語に耳を傾けたものだ。あの昔話は半分は祖母の自作ではないかと、六十
年余りも経った今でも疑っている。
 侍の家の子供の話や、その侍の家の井戸の話、お城に住む蛇が妙に活躍したり、犬
や馬の話も多かったのだが、鶴の恩返しや桃太郎の話は、祖母からは聞くことは無か
った。
 そういう有名な話は、本から学べということだったのかもしれないが、繰り返すが、
祖母の語る昔話は実に面白かった。
 だがその祖母も亡くなり、することの無くなった子供の筆者は、ひたすら本の中に
娯楽を求めて、それが今も続いている。

 最近は、東京の友人が読んで面白かった本を送ってくださる。もう在り難くて北へ
向かって手を合わせて読んでいる。最近送って頂いた本が、柚月裕子氏の「検事の
本懐」から最新作まで、いろいろと。実に面白くこれが娯楽の真骨頂と思いながら
楽しんでいる。
 この女性作家は全然知らなかった。ずいぶん昔に、成田空港で飛行機に乗る前に、
本屋で面白そうな本を物色していた、見つけた本が「火車」だった。へぇ火車かぁ、
面白い名前を付けたものだと思って買った。シドニー空港に着いた時に読み終わり。
久しぶりの女性作家に圧倒された。凄い作家が出たものだと心が躍った。以来彼女
の本は、日本へ帰国する度に買って帰ってきた。若い頃から、山崎豊子以外は、
女性作家の本は殆ど読まなかったのだが。
 宮部さんも柚月さんもお若いから、まだまだたくさん面白い本を、読者に提供して
くださるだろう。男性作家も大活躍しているし、素晴らしい本をいっぱい編み出して
くれているので、この分なら死ぬまで日本語の本で行けそうだ。
 何処にも出かけなくても楽しめる読書。我がオフィスにて、横で寝ているポチの
寝息を聞きながら平和な日々である。




第35回 2018年8月5日
変わる社会

 6月3日のエッセイ以来、2ヵ月余りもサボってしまった。月日が飛ぶように過ぎて
ゆく中で、あらっもう8月だわ、自然な感覚でお盆だなぁと思ってしまった。お盆の
お墓参りが懐かしい。
 
 社会が変わったと思うのは筆者だけではないと思う。おまけに最近は気候までも
変わって来ているのだから。日本は今、厳しい夏を迎えて40℃越えがあるようだ。
しかも早くから夏になっている。台風などは筆者の頃は、秋というイメージがあった
が、今は春から台風が襲ってくるのだから怖い。
 そしてお盆が過ぎると秋風が吹いて、季節が夏から秋へと爽やかな風を感じたもの
だが、今はもうここオーストラリアでも季節感が感じられない。元々日本のような、
はっきりとした四季は無かったのだが、ここのところ特に季節は、長い夏と長い冬に
なってしまったようだ。大好きな春と秋が短いように思う。そのうち世界は夏と冬だ
けになるのかも知れない。

 筆者は弱虫で心配性、2020年の東京オリンピックの心配で夜も眠れない日々が続
いている。今年が異常なのか地震の後に、たいへんな豪雨が襲って、多くの人々が
被災し人命も多く奪われてしまった。心よりご冥福をお祈り申します。
 湿度が高くて猛暑の7月に、東京オリンピックを開催すると決めた馬鹿者は誰だと
言いたい。出場選手も応援する人々もたいへんな事になりそうだ。特にマラソンなど
長丁場の競技が心配だ。オリンピックは10月10日の秋でなければならない、と昭和の
オリンピックの時に中学生だった筆者は思うのである。
 今、アメリカやカナダは、大規模な森林火災に襲われていて、千を超える家々が
焼失し、未だ消し止められないようだ。
 世界中が異常気象の中で苦しんでいる。そんな中ここオーストラリアは平和な
日々だ。

 物価の上昇についてゆけないだけが悩みである。想像できない値上がりに、当然の
ように外食が減ったのだ。二人でブランチ又はランチに行けば、軽く60ドルを超える、
油断すれば80ドルにも跳ね上がるから出かけないことにした。1万円に近い金額になる
のだ。ランチだから決して大した物を食べる訳では無いのに。
 移住した当時は、オーストラリアで高額な物は本と保険と車(中古車も含む)だけ
だったように記憶している。人々は大切に古い物を直して使い、ゴミが出ない国で驚い
たものだ。今は反対になった。我が街も至る所に、ゴミの収集を待つ粗大ゴミが並んで
いる。
 車は韓国車ばかりが目立つようだ。毎週水曜日に地元のロータリークラブの、朝食
例会が7時に、日本庭園のレストランで開催されている最中にポチの散歩で通るのだが、
20数台の車のうち9台がヒョンダイとキアの韓国車だ。余りに多いので気になって数え
てみた、3分の1以上が韓国車である。凄い人気だ。ディーラーが頑張って売っている
のかしら?
 筆者の友人の女性も新車のヒョンダイを買った。88歳の犬仲間の友人である。また
免許取得したばかりの若者Pマークの人も韓国車である。ほんとうに凄まじい勢いで
増えている。市役所の車もヒョンダイになった。パトカーもヒョンダイ、大丈夫なの
かこの偏り方、疑問を持つ筆者が可笑しいのか?

 変わらない物など世の中に無いのだが、この僅かに30年余りの間に真逆になった事
の多いことに唖然となる。社会は変化して当然とは解かっているのだが、この物価の
高さにバブルなのかなと思ったりする。
 シドニー郊外の街チャッツウッドの高層ビル群は、空き家がいっぱいだそうだ。
中国からの投資家が買っているのだとか。ほんとうだろうと思う。我が街のタウン
ハウスも皆、中国人が買い占めているようだから。
 今回のエッセイは、実情を書いたが何だか愚痴っぽくなってしまった。お許しを
願いたい。





第34回 2018年6月3日
Social Butterfly

 筆者が若い頃(30歳前後)尊敬する婦人がいた。その彼女が何時も言ってたことは、
しじゅう(40歳)を過ぎると人生は、急な坂道を転がり落ちてゆくように、谷の一番下
の底まであっという間に転がり落ちてゆく。そして人生が終わるから、心して生きろ、
みたいな事だったと思う。
 当時の筆者は、頷いて聴いてはいたが、おっしゃる意味が頭と心に響かなかった。
人は生れたと同時に死に向かって突き進むのだと、解っていたのだが実際に自分自身に
置き換えては考えられなかった。
 ところが今は、よく理解できるのだ、なるほど彼女の言ってたことはこれか、と思う
日々なのであるから。

 友人の大沼キャスターの訃報が突然届いて、あんなにお元気で溌剌とテレビで活躍
されてた彼が、今日はもう居ないことに愕然となった。肺炎だったようでさぞ苦しか
っただろうと涙が止まらなかった。筆者と同い年なのだから早過ぎるし悲しい。
 月曜日から金曜日まで静岡朝日テレビのキャスターで、たぶん16年目ではなかった
かと思う。静岡の街を歩いていると、皆からお声がかかる人気の人で、笑顔で答えて
いた姿が思い浮かぶ。
 だから1日1日を大切に生きなくてはと、心から思うこの頃である。今年も10月に
お会いする約束だったのに。

 さて今日の本題である Social Butterfly は、最近我が家で揶揄的に呼ばれるあだ名
であるが、この頃の筆者は正にその Social Butterfly なのだ。今日はニューキャッスル、
明日はシドニー、飛び歩いているのである。机の前から長年動かなかったから、
たいへんな変わりようである。
 何故かは「穣の一粒」が筆者を、追いかけてくれるようになったのだ。執筆中は
追っかけは筆者で、穣の足跡を辿り、日本へ飛び、そしてメルボルンやスワンヒル、
ベンディゴへと取材で飛び回ったあとは、ここから動くことはなかったから。
 
 先週はSBSラジオの日本語放送で、2週に渡りオーストラリア米のパイオニアと
して、今では伝説になっている穣の事が紹介された。
https://www.sbs.com.au/yourlanguage/japanese/ja/audiotrack/hao-zhou-dao-zuo-nopaionia-gao-xu-he-rang-nowu-yu-zuo-jia-song-ping-mina?language=ja

SBS Japaneseのフェイスブック
https://www.facebook.com/SBSJapanese/posts/2021063874579421

 3週間後には、チャツウッドのコミュニティー・センターで、高須賀穣の講演を
BEST.Inc.の代表の清水さんに頼まれて、喜んでお受けした。どうかお時間のある方
はいらっしてください。
 オーストラリアに住んでいらっしゃる日本人の方々に、明治時代の大先輩の功績
と共に、この国で美味しいお米が食べられることに至った事実を知って頂ければ幸甚
であり、誇りとしたい。
場所と日時は、

Dougherty Community Centre (Meeting Room)
7 Victor Street Chatswood NSW.
6月23日(土曜日)13:45受付
14:00講演スタート
申し込み&お問い合わせは、bestinc0717@gmail.com

 そしてもう一つ穣の物語、SunRice社に招待を受けて暑い日にリートンへ飛んだ。
4月の刈り入れ前の38℃の気温は普通は無いとおっしゃっていたが、実に広大な面積
の農場を見ながら、圧倒されてしまった。
 正に黄金色の稲穂の中に立ったのである。110年前に穣が試作して、稲作の基礎を
築き、現在のオーストラリア米は、世界60ヵ国へ輸出されている。
 今年は初めて日本で「穣の一粒」5キロ入りの販売が実現した。住友商事の特許庁
登録名「穣の一粒」である。友人が買いに行ってくれて食べたそうだが、嬉しいこと
に「美味しい」との評価を得た。
 SunRice社から間もなくフィルムが出来上がるとのこと、出来上がってきたら
FaceBook に載せたいと思う。

 以上が筆者の、最近の蝶々ぶりで、あちこちへ飛んでいるが、何処かでお会いする
機会もあるかと。その時は是非、肩を叩いて頂きたいと願っている。

 

2018年6月23日(土曜日)Chatswood にて 刈り入れ前の黄金色の実りの中で





第33回 2018年3月15日
タンポポの逆襲

 オーストラリアには日本でも有名な、ブーメランという先住民が狩りに使っていた、
飛び道具がある。彼らが投げると遠くの獲物を攻撃して倒し、手元に戻って来ると
いう優れものである。
 今では日本語でもよくつかわれるブーメラン。自分のしてきた悪事が、のちに自分
に向かって返ってくること。同じでは無いにしても、敵をとられてしまうような事案
が自分に向かって振りかかったくること。
 なんとそれが、筆者にも返ってきたのだ。思いも寄らないことで唖然となってしま
った。正にブーメランと言うべきか。

 じいちゃんばあちゃんが、ここに住んで居る頃は、彼らの価値観が何故か優先され
て、庭にタンポポなどは以ての外で、緑の芝生がきれいに業者に寄って保たれていた。
支払いは何故か筆者であったが。
 その二人が居なくなった数年前から、庭には見事に黄色のタンポポが徐々に増えて
行った。もちろん業者も来なくなっている。筆者は昔から黄色が好きで、庭のタンポポ
も一面に咲くと美しく、それほど気にしないでいたのだが、黄色は明るくて良いと。
 最近(1年ほど前)になって、近所から苦情がきた。その黄色のタンポポが、飛んで
来て根を下ろすから、何とかならないかというものだった。
 それはたいへん申し訳ないと謝って、二股になった草取り器具を使って掘り出して
みたが、余りに膨大な数であった為、手に負えず諦めた。
 そして、友人である庭の専門家に相談し、相応しい除草剤を買って来てスプレーした。
 見事に、黄色のタンポポは消えてしまったのであるが、数カ月もしないうちに、また
一面に黄色が目立つようになった。
 
 えぇっ、1年は効くと言われた筈なのに。不思議に思いスプレーをした跡をよく見て
みると、黒く枯れた根本には緑の新しい葉が出ていて、其処から真っ直ぐ空に向かって、
新しい茎が伸びて黄色の花を咲かせている。
 二股で掘り返すと、なんと根は数本にも分かれて、力強く土を噛んで、地中に伸び
ている。スプレー前のタンポポの根は1本で、真っ直ぐ延びて地中に、10センチから
20センチほどの長さで生えていた。余程長いものは30センチ近くにもなる。太さは
直径凡そ6ミリほど、太いものは10ミリにもなる。
 ところがスプレー後の根は、全て複数に分かれていて、驚いたことに8本も着いて
いるのがあった。思わずタンポポの蛸だわと独り言になった。長くはなくて、10センチ
ほどの根がほとんどだが、見事に何本にも別れている。1本がダメになっても、他の
根が生き抜くという訳だ。
 自然の逞しさに驚くと共に、敬意を感じてしまった。やはり強烈ないじめ(スプレー)
をした、しっぺ返しだと思った。知らず知らずのうちに、タンポポに頭を下げていた、
ごめんなさい。
 これからはスプレーは使うまい。1本1本二股で根を引き抜くことにした。数カ月は
かかるだろうと、溜息が出たが、自然の逞しさというか、防御というか、我々人間も
もう少し防御をと、思ったりもしたタンポポの逆襲に頭が痛い日々を過ごしている。




第32回 2018年3月2日
オーストラリア産米「穣の一粒」が、日本で販売に

 先週、住友商事のシンガポール支社の畑氏よりメールを頂きました。なんと日本で
オーストラリア産米コシヒカリの5キロ入り「穣の一粒」が、遂に販売されることに
なりましたというお知らせでした。
 実際にスーパーで売られている写真付きす。東京東江戸川ロータリークラブの嶋村
さんにも、お忙しい中越谷まで行ってくださり、「穣の一粒」を買って写真を送って
下さったので、このエッセイに載せることができました。嶋村さん何時もありがとう
ございます。

 小説「穣の一粒」のタイトルは、実は住友商事の特許庁登録済みのお米の名前を
そのまま使わせて頂いたのです。3年余りも前の話ですが、その時、東京本社勤務
だった畑氏に多大なお世話になりまして、小説名が決定した経緯でご縁ができました。
当時 SunRice 社のベイズリー氏を訪ねて、カタログを見せて頂いた瞬間、胸に響いた
名前だったのです。
 使用許可が下りた時には、ほんとうに嬉しくて胸が高鳴ったものです。

 高須賀穣は、松山藩士の家に1865年に生まれ、明治維新を幼児の時に経験して、
藩校の明教館で学び、明治4年に松山に小学校ができて、小学校へ移り学びました。
 のちに師範学校を卒業して、小学校の教師になるが、もう少し学問をと、上京して
慶應へと進み、更にアメリカへ留学して、文学士を授かり帰国します。
 松山一区から出馬して衆議院議員に当選します。2期務めた後、妻子を連れて1905年
オーストラリアへ移住して、全く携わったことのない米栽培に挑むのです。
 荒れ狂う大河へ挑み、白豪主義を国是とする国家との闘い、苦難を乗り越えてオース
トラリアで初めての米栽培に成功しました。今では「オーストラリア米の父」と呼ばれ、
伝説になっている松山人であるのですが、日本ではほとんど知られていませんでした。

 1994年、日本の米の不作に伴いオーストラリアからの米が、神戸に陸揚げされた際に、
高須賀穣といち子の孫たち4夫妻が、神戸港で立ち会った映像を観たのです。  
 穣が人生の後半生をかけて取り組んだ、オーストラリアでの米作り、遂に成功します。
彼の情熱の続きは、世界へお米を届けること、世界の飢えを救うことだったのかも知れ
ません。
 現在、世界60ヵ国余りへ輸出されています。なんと南極大陸までもSunRice社から届
けられています。






第31回 2018年1月5日
日本人なら日本語

 皆さま、新年明けましておめでとうございます。今年も仲良く元気で幸せに過ごせ
ますようにと、能天気に元旦の朝陽に手を合わせ祈りました。

 30数年も日本を離れていると、見事にさまざまな事を忘れて困っている。特に田舎
に住んで居る為もあり、日本語での会話がほとんど無い。そしてペンを持って書き始
めると、途端に書きたい漢字が、「えっ嘘だ」浮かんでこない。書けないのだ。大慌
てで辞書を開くという繰り返しになっている。筆者はスマホでは調べない。必ず辞書
を引くことにしている。
 こんな日々であるが、ああ日本人に生まれて良かった。日本語で話せること、日本
語の本を読み、つくづく在り難いと思うこの頃である。

 以前にも書いたが、今、日本で英語教育が重要視されてきているようだが大きな
間違いである。絶対に学校教育で他国の言葉を、小学生から全ての生徒に押し付けて

はいけない。それより日本人なら日本語をきちんと正しく教えることこそが大切である。
 思い起こしてもらいたい。戦後生まれの我々は皆、中学校から学んで来た英語。
中学と高校だけでも6年間。大学で英文学などを勉強した人は、10年間も英語を正式
に学んで来ていることになる。少なくとも大学で2年間は勉強していることを思えば
8年間である。高い教育を受けてきた日本人たちだが、皆が英語を得意としているか?
寧ろ英語はどうもね、という人が多いようだ。
 何故、こうなっているかを考えてみるに、英語など話さなくても日本で幸せに生き
てゆけるからだ。英語が大好きという人もいるだろうから、そういう方に頑張って頂
いて、通訳や翻訳などはその本職の方々にお任せし、英語はどうもねという方々は、
日本語でよいのだ。

 小学生から英語、英語と強調した雰囲気が出来ることも問題であるし、むしろ怖い。
日本語が正しく話せない、理解できないのに他国の英語などもっての外である。
 自分の生まれた国の言語が基本である。先ずは日本語を正しく理解することが大切だ。
昨年の日本のニュースの中に、中学校3年生の25%の生徒が教科書の文章が理解でき
ないと書いてあった。日本語の文章さえ理解できないで、義務教育を終了してゆく現実
に唖然となる。英語などもっての外ではないか。
 それでも日本語の中に多くの英語や、他の国の言葉が、そのまま日本語として使われ
ている。または英語を幾つか繋げて一つの日本語として成立している。
 例えば、筆者たちの子供の頃からある、テレビ、ラジオ、アンテナ、ケチャップ、
チョコレート(チョコ)など数えきれない。
 また繋げた言葉としては、セクハラ、パワハラ、スマホ、少し前まであった
デジカメなど、これらの繋ぎ英語の日本語も数えきれない。最近では英語がそのまま、
コンプライアンス、ミーティング、ガバナーなどは当然のように使われているから、
既に日本語となっているのだろう。

 筆者も一時期、翻訳を仕事にしていた時期がある。日本語から英語は比較的簡単で、
翻訳時間も短くて済んだ。ところが英語から日本語は苦労した。論文などなら問題は
ないが、手紙文などは、誰から誰に出すのかで大きく文章が変わる。敬語を使うべきか。
淡々と指示文でよいのか。又は対等な立場の人なのか。使う日本語に苦労をしたもの
である。ほんとうに日本語は深いとつくづく思った。翻訳家として向いていないと判断
して、数年で止めた。ボランティアでは時々書いてはいるが。
 近頃日本へ行っても、美しい日本語を余り耳にしなくなった。昔に比べ、ガサツに
なっているのか。酷い言葉使いの番組のテレビもあって驚いた。
 それとは反対に、若い人たち(中学、高校生でも)がインタビューなどで
「嬉しく思います」と使っているのをよく聞いた。
 筆者が日本に住んで居る頃は、「嬉しく思います」は天皇が我々国民に向かって言う
言葉だった。若者が「嬉しく思います」と使うことはなかったように思う。「嬉しいです」
が自然だった筈だ。
 子どもや若者が「嬉しく思います」と言うのには、かなり違和感がある。
 
 言葉は時代と共に、変わって当然なのだが、その速さに追いついてゆけない。それでも
願わくは美しい日本語や正しい使い方の日本語を聞きたい。日本から遠く離れて住んで
いる者には、やはり憧れであるのだ。



 


2017年
 

第30回 2017年12月31日
年の瀬に学ぶ?

 あっという間に、今年も今日が最後の1日になった。年々スピードを増して過ぎて
ゆく1年を必死で追いかけている。
第29回のエッセイを書いたのは、9月27日だったから3ヵ月余りもサボったことになる。
 11月の中旬に日本から帰国して机に向かった。新しい本をもう1冊出版したいと考え
て、取材を兼ねて訪ねた町々の歴史的豊かさに改めて感動した旅となった。

 最近、偏った読書をしている。吉村昭氏の本ばかり読んでいるのだが、重い内容の
本が多い中で、エッセイは声をあげて笑うほどとても面白いものが多く、また勉強に
もなる。
 例えば、吉村氏が夜、家の近くの吉祥寺の大衆的な飲み屋で編集者と打ち合わせを
することがある。十年近くも通う常連の氏に、店主が傍らに来て膝をつき、
「今度店内を改装するのだけれど、手洗いの配管をやってよ。馴染みのお客さんに頼む
方がいいから・・・」
と。氏は、
「ちょっと、今その方面のことはしていないので・・・」と断った。店主は、
「そうなの。それじゃ仕方ない」
と傍らを離れて行った。呆気にとられていた編集者は、氏が配管業者に間違われたこと
に、目に涙をにじませて笑い続けた。
 その後、店主は氏が小説家であることを知ったが、飲みながらハイカン、ハイカン
と言っていたのを耳にして配管業者だと思いこんだという。
ハイカン?何かの雑誌の廃刊の話でもしていたのだろう。

またある時は、養豚業者と信じられていたことがある。氏曰く、小説家には見られな
くて、刑事に間違われたり、工務店の経営者だったりするそうだ。日本全国取材は殆ど
ひとり旅らしく、また見かけが小説家には見えないという。小説家の見かけというもの
があるのかどうかは筆者には分からないが、吉村氏のエッセイを読む限りは、なかなか
小説家には見られないのだと、面白がっているようだ。

「鳥肌」というタイトルのエッセイでは、テレビで芸能人たちが鳥肌がたつと使って
いるが、「鳥肌が立つ」とは「総毛立つ」と同じで、激しい恐怖を表現する。
いわゆるぞっとするというやつである、と。
 ところが芸能人は、例えば美空ひばりが重病に侵されながら舞台に立ち、歌を何曲
も歌う姿に「ほんとうに鳥肌が立った」と言う。その場合の「鳥肌が立つ」とは、
感動したという意味のようだ。じーんとしたということを言いたいらしい。本来の
意味からすると歌う美空ひばりの姿にぞっとしたと言う事になり、失礼この上ない。
 テレビで芸能人がそのようなことをしばしば口にすると、テレビを観ている人の
中には「鳥肌が立つ」とは深い感動を表す言葉と思いこむ人もいるだろう。
 テレビの影響力は大きく、それが日常語として使われるようになるかもしれない。
そうなったら、それこそ鳥肌がたつ思いだ。と、氏はこのエッセイを締めくくっている。

 実は筆者も「鳥肌が立つ」を深く感動した意味で使っている。実際に十日前、世界
に名だたるオーストラリアバレエの「不思議の国のアリス」の舞台をシドニーで観て
きた。
 友人のお嬢さん、根本里菜さんが主役のアリスを見事に務めて感動でいっぱい。
ずうっと鳥肌が両腕に立っていて、幕が下りた後、東京から応援にいらっしてたご両親
にも、鳥肌が立ったと、感動を伝えたが、間違っていたのだろうか?
観ている筆者の感動は続き、実際に鳥肌が消えなかったのだ。
 言葉は時代で変わってゆくとは解かっているが、これほどまでも違ってよいものか
と思ってしまった。実際に里菜ちゃんのバレエは最高で、三幕踊り通した姿は感動
そのもので素晴らしかった。 彼女は未だ二十六歳になったばかりだ。若い人の活躍
は特別に感動を伴う。その上、2日後にバレエのランクを一つ上げてソリストになった
と、更にニュースが飛び込んで来た。
嬉しさのあまり、筆者の腕には又しても「鳥肌が立った」のだ。





第29回 2017年9月26日
日本人なら、英語の前に日本語

 又しても長い間サボってしまいました皆さまお久しぶり!
毎日のように、真北にある日本のニュースを読んだり、情報があると良いことであればと
願う一日本人であるのだが、この頃危ない国が隣にあってとても心配している。
 ミサイルをどんどんと開発し、試し打ちのように飛ばしているからだが、凶器の最たるもの
怖い話だ。核搭載のミサイルだと想像するだけで震えて来る。怖いけれど難しい話はさて
置き、女性政治家がいろいろと話題を提供しているのも、ミサイルとは反対に、平和な日本
らしい馬鹿らしさでもある。
 そんな訳で、今日は思いっきり「老人の独り言」でゆく。

 またよく読むニュースの中で、英語、英語と重要視されている記事があるが、これは大き
な問題であると常に考えている。
 英語などは単なるひとつの言語である。確かに英語は世界語となりつつあるが、言葉
である。英語を使って他の学問をするというのであれば、大いに意義があると思う。
 英語を上手に話す日本人の若者2人と、偶然隣の席に座っていた。大したものだと思っ
て、友だち同士で話している内容を聞くともなしに聞いていると、英語は割にきれいに
話しているのに、日本語がむちゃくちゃだったから驚いた。
 このごろ、時々あれっと思うことがあったから。それは英語英語という訳で英語教育に
熱心になるのはよいが、肝心な日本語が追いついていないのではないか。
 昨日のインターネットのニュースで読んだのは、中学校3年生の25パーセントが教科書
の文章が理解できない。読解力が無いのだと書いてあった。日本人なら英語の前に日本語
だろうと思うが、どう間違ったのか、日本語より英語の話せる人が偉いとは、大きな間違いだ。
 日本へ帰っても、美しい日本語を先ず耳にすることができない時代になってしまったのか。
昔からある美しい響きの日本語を無くすのは勿体無いし、大きな損失だと思う。読む、書く、
話す、日本語を先ず学んで其処に英語も加えて欲しいと思う。

 過日のこと、YouTubeで大きく取り上げられていたのが、天皇家の次男、秋篠宮家の長女の
婚約発表の画像だったので、筆者も観たが一生懸命練習しただろうことが解かる会見だった。
 幸せそうな二人の笑顔は素敵だった。興味深かったのは婚約者の馬鹿顔と、日本語の拙さ
だった。秋篠宮家のレベルが判るというものだったが、秋篠宮家の中での宮様は、秋篠宮殿下
ひとりであり、長女を宮様とは言わないし言えない筈だ。宮様とは宮家の当主のみが、そのよう
に呼ばれる立場にある筈だ。
 現在なら、高円宮家、常陸宮家、三笠宮家と秋篠宮家の4家ではないかと思うが間違ってい
るかも知れない。何故、会見の前に教えなかったのか、公の発表だというのに。
 筆者にとってはどうでもよい事ではあるが、婚約者の座右の銘を聞いた時は飛び上がって
しまった。Let it be と言ったのだ。驚きで卒倒しそうになった。
 秋篠宮家の長女と結婚しようという25歳の男が言う言葉ではない。宮家の姫と結婚して
幸せにする覚悟はあるのか。月がきれいなどと言ってられない筈だ。
 秋篠宮家は元々変だが、妹はパフォーマンスダンスを勉強にイギリスに留学している
らしい。国民が一生懸命働いて支払う税金の使い道にしては、誠にお粗末すぎる。

 話しがかなり逸れてしまったが、日本語の衰退の原因は、やはり本を読まなくなったから
だと考えているが、正しいかどうかは分からないが、活字から得るものは計り知れない筈だ。
 画像も楽しいけれど、画像からはそれほど発展した想像力は生れない。ところが活字から
なら経験や知識、あらゆるものが一緒になって想像力を広げて発展してゆくから、豊かに
広がってゆく面白いものだ。語彙が増えてゆくのもよいし、忘れた漢字を思い出させてくれる
オマケもある。
 中学3年生で25パーセントの生徒が、教科書の文章を理解しないまま、中学校を卒業して
ゆく現実は怖いと思うが、先生方はどのように考えているのだろうか?
 上記に、思うままに言いたいことを書いた宮家の教育、我が家は本人の意思に任せて
あるからと書いてあったが、我々一般人ならそれでよいが、税金で生活している宮家の
子供たちが、其処まで自由でよいのか?

 今日は、日本語の心配をして書いたが、もう少し日本の真骨頂である技術や、穏やかな
国柄などについても書いてゆきたい。
 日本の平和ボケは事実だろう、実際に72年も戦争に巻き込まれていない国は、世界に
そんなに無いだろうから。オーストラリアは第二次世界大戦後も全ての戦争に参戦している
から、やはり日本は、異常と思える長い平和を保っている国だと思う。
 今日は、オバサン思いっきり吐き出した。お疲れ!






第28回 2017年8月11日
事前キャンプの誘致に向けて

 ラグビーワールドカップ2019年日本開催が決まって、昨年から愛媛県が、事前キャンプ
の誘致に向けて活動を開始している。
 昨年2016年8月に、愛媛県少年ラグビーチームが、クィーンズランド州のゴールドコースト
での交流試合に挑戦した。とても楽しかったようだ。その証拠に今でも交流が続いているのだ。
子供たちはホームステイをしたので、その後の交流も家族を巻き込んで続いているという。

 その同じ時に、大人5人のグループがシドニーまで脚を伸ばして、シドニーのラグビーの
第一人者の日本人、加藤俊久氏に会うことができた。良いアドバイスを頂いた。
 又、愛媛県ラグビーフットボール協会の中矢博司氏の、無謀とも言える交渉から始まって
実現した事実がある。それは、日本フットボール協会副会長であり、関西フットボールの
会長を務める坂田好弘氏を誘ったことだ。この段階では普通には考えられない中矢氏の
強い情熱が、たぶん坂田先生にも通じたのかも知れないと思う。とてもラッキーだったと
言うには、余りにも不思議な人との縁に導かれたことだけは間違いない。
 坂田氏は、日本人で初めて2012年にラグビーの殿堂入りをされたラガーマンである。
また坂田氏と加藤氏は長年の友人と言う。そして、もう一人の友人のラガーマンのケアレン
氏もご一緒だった。その時にはNSW州政府のスポーツ部長のジェイン・スプリング氏を
訪ねて、2000年のシドニーオリンピックの際の、主催者側の手順やその方法やボランティア
の活用などについても話しが聞けたし、オーストラリアのラグビーの人々にも会えて、先ず
手ごたえを掴んだ。

 2019年9月20日~11月2日まで、札幌、釜石、熊谷、東京、横浜、静岡、豊田、東大阪、
神戸、大分、福岡、熊本と日本全国12都市で開催されるラグビーワールドカップだ。
しかしながらこの中に、四国は何処も入っていないのだ。それならば愛媛に事前キャンプを
誘致しようと考えて行動を開始したのが、県と市とラグビー協会だった。
 絶対に事前キャンプ誘致を勝ち取ろうと、中村知事、野志市長そして福沢会長のお三人
が立ち上がった。その情熱が伝わってくる中矢理事長の走る姿にも熱が入っている。
 そこからさまざまのドラマが始まって行った。今年の4月には再びシドニーを訪ねた。
その際に大きなお土産を持参していた。愛媛県民90,012人の誘致の署名だった。オースト
ラリア・ワラビーズの人々の驚きの顔が想像できる。たいへんな数である。ワラビーズの
重鎮も、トンデモナイ数字に驚かれたことだろう。

 そして次は民間のテレビ局、あいテレビが開局25周年の記念の番組にと「楕円の縁」又し
てもトンデモナイ企画を組んでクルーがオーストラリアへと飛んだ。
 6月のことだった。何とその番組があっという間に完成して、7月26日水曜日に1時間番組
として放送されてしまった。流石にプロの仕事だと思った。楕円の縁、ラグビーボールと、
高須賀穣のお米が、此処でようやく筆者の心の中でも繋がったのだ。
 県庁と民間が、がっちりと組んで一つの目的に向かって動く。こんな県は他には無いだろ
うし、何処かで軋轢が生まれるものだが、不思議に愛媛県にはそんな感じが無いようだ。

 そして8月初旬には、オペラハウスでの一大イベントの鉄人シェフの大会を、メルボルン
在住の長谷川氏が企画して大成功させた。愛媛県は勿論のこと、この行事に積極的に
参画し、8日火曜日には愛媛物産展まで開催してしまった。
 愛媛県出身の企業家であり、レストランオーナーでもある定松勝義氏が、居酒屋鱒屋
を提供して多くの皆さまが集った。
 筆者は初めて耳にした菓道家、もちろん新語であるが、如何にも素敵な菓道家だった。
彼の和菓子の披露、要するにパフォーマンスであるのだが、驚くべき技術と味、そして
芸術にまで高めた所作と見栄えは圧巻であった。もちろんその一つに、愛媛のみきゃん
も素敵に可愛い!本物みきゃんちゃんとのひと時も。

 愛媛の物産紹介では、みかん、ミソ、あげ、酒、ロウソクなどの多くの物産に興味が湧い
た。全くアルコールはダメな筆者にも、香りだけで好きになりそうな酒、山丹正宗も良かった。
初めて見た内子のロウソク。これは見事な芸術で、全くロウが垂れないし煙が出ない、
炎は根本の部分が青く光り炎全体が長く大きい。
 実に素晴らしい伝統技術であるし、これは我が街のように頻繁に停電になる地域には
絶対に紹介したいと思った。
 あと極めつけは、みきゃんちゃんだった。顔の可愛さだけでなく筆者の大好きな黄色の
丸いボディ、温かい小さな手、手を繋いで写真に納まった。嬉しいひと時であった。
子供たちの憧れが理解できた。
 
 愛媛の素晴らしさは技術、伝統、温暖な風土、食べ物の豊富さ、西日本一の石鎚山、
26ヵ寺もある弘法大師のお寺、数えきれないが、やはり一番は県民の穏やかさと、
モノに対する情熱であろう。

頑張ろう、愛媛!





第27回 2017年6月30日 
1年ぶりの日本旅行 つづき、鶴岡にて

 快適な嶋村会長の運転で、鶴岡へ向かう時、雪を頂いた月山と遠く鳥海山も美しい姿で
迎えてくれた。目の前に悠然と姿を現して迫ってくる月山に思わず手を合わせた。春の煌め
く光の中にも雪を頂いた山々には、正しく日本の原型があるようだ。

 致道館の展示を感動で観たあと、夕食会へ向かってトアル料亭へ到着した。靴を脱ぎ定め
られた席へ着いたが、妙な違和感があって、心のどこかでアレッと感じていた。嶋村会長の
紹介で大笑いになった。
 皆さまは、オーストラリア人の留学生(若い女の子)が来るのだと思っていたようだ。そこへ
白髪の日本人顔のオバサンが座っているのだから、あれっと思うのは当然で、どこで話しの
行き違いがあったのかは分からないが、「すみません、若い留学生でなくて」と頭を下げて
大笑い、実に楽しい夕食会であった。笑って食べて、また笑うという結果になった。
 嶋村会長が、鶴岡の母と慕う樋渡氏、佐々木ご夫妻にお嬢さまの麻子さん、どなたも素晴
らしくてお話しが弾んだのだ。佐々木和尚さまのお話しがとっても良かった。もともと筆者は
自身の幼稚園がお寺だったから、あの大好きだった和尚さまと、佐々木和尚さまが見事に
重なってしまった。
 奥さまの幼稚園での話も楽しかった。麻子さんはオペラ歌手であるという。お若いが自信に
あふれて実に魅力的な方で、5ヵ国語を自由に歌える。鶴岡(庄内弁)を加えると6ヵ国語に
なると言う。友人との話を庄内弁で披露してくださったが、さっぱり解からなかった。解らない
なりにイントネーションの柔らかさから温かみが伝わってきた。方言大好きの筆者、もっと
聞きたかった。

 樋渡さんのお家へ寄り、仏壇にお線香をあげて手を合わせて、2006年の藤沢周平の世界
という雑誌を頂戴してホテルへ。
 ホテルは嶋村会長の定宿、東京第一ホテル鶴岡である。明日の朝の朝食集合8時半で
それぞれの部屋へ。風呂に入り机に向かったが、余りに多くの方々にお会いした為、頭の中
はすっかり混乱していて、纏まりの無い文章を書き散らして寝てしまった。

 朝、早く起きて散歩に出た。鶴岡駅が近くにあり、通勤の方々なのだろうか、こんなに早朝
にもう歩いている。駅の所にも巨大な建物があるので、犬の散歩をしているご婦人に訊くと、
近隣で収穫された米を此処に集めるのだと教えてくれた。
 駅を通り越して歩いて行くと、雑草が幾つも青々と出て来ていた中に、先日、江戸川区の
盆栽の小林先生が、筆者の友人の為に造って下さった「風知草」の盆栽と、とてもよく似た
稲の葉のようなのが目に留まった。毎年日本訪問の際には、必ず盆栽庭園の春花園の
小林先生を訪ねる。同じ年の先生と奥さまと、寿司をご馳走になりながら、風知草のように
未来へ向けて話しが弾んだのを思い出しながら、しばらく早朝散歩を楽しんだ。

 ホテルでの朝食のあと出発する。最初に到着したのは、月山の麓の松ヶ岡の広大な地域
に、異様な建物が立ち並ぶ所である。車から降りると、心を鷲掴みにされたような感動で、
思わず立ち眩みがした。
 オーバーでは無く、こういう古い家が大好きということもあり、大きく立派で尚且つ歴史を
感じる何かが匂ってくるようだ。其処には鶴岡ロータリークラブの皆さまが、三々五々集ま
って来てくださった。
 しかもゴールデンウィークの最初の日であり、今にも雨が落ちて来そうな雲行きの中である。
いいなぁいいなぁと独り言を繰り返していた。

 これらの建物が、養蚕の為の蚕室であることが解かって、頭の中でストンと納得した、が、、、
この巨大さに圧倒される。何故これほどまでに大きいのか?この規模なら個人では無い筈、
庄内藩主酒井家のモノだったのだろうか?
 あとで頂戴した書物で解かった事は、幕末の戊辰戦争で最後まで新政府に反旗を掲げ
戦った庄内藩の侍たちが、刀を鍬に持ち替えて開墾した桑畑と、養蚕室であることが解か
った。
 同じように最後まで戦った会津藩は、たいへん厳しい処分を受け会津から追い出された
ことを思うと、庄内藩は西郷隆盛により守られたことが分かった。あの戦乱の中でも、やはり
「人」だったのだと、21世紀の今に至って、歴史の不思議さを噛みしめた。
どんな人(誰)が、処分を決定する時の権限を持って上に居るかということであったろう。

 その後は雨になり、玉川寺に移動する。素晴らしい庭園に目が釘付けになりながらも、
美味しい緑茶を皆でご馳走になり、いよいよ大降りになった雨の中、羽黒三山へ向かって
出発する。
 鶴岡ロータリークラブの加藤亨会長さんをはじめ、武田啓之氏、佐藤友行氏、小林健郎氏、
富樫松夫氏そして冨田喜美子氏、他にもご一緒して頂いたのだが、お名刺を頂かなかった
ので、今ではお顔は浮かぶがお名前は失念してしまった。ごめんなさい。
 次回また鶴岡へお邪魔する機会に恵まれたなら、必ず頭に刻み込ますのでお許しください。
冨田さんには同じ女性同士、意気が合い特別楽しい時間を過ごせたと思う。
 羽黒三山、国宝の五重の塔、やはり此処も雨のなか、皆で歩いてお参りして、又登ってきた。
こんな地味な国宝は驚きであったが、実にぴったりと気持ちの中に納まった。地味さが新しい!
 キンキンキラキラも時にはよいが、キラキラは飽きるが、この地味さは訪れる度に好きさが
増してゆくだろう、いいものを見せて頂いた、ありがとうございます。

 そして昼食の出羽神社へ向かう。庄内平野の特徴なのだろうか、何処を訪ねても全てが巨大
だ。松ヶ岡本陣も、養蚕室も、全てが雄大だ。雨の煙る中、国宝五重の塔もひっそりと建って
いる。
 出羽神社は、筆者の想像を遥かに超えたものであった。山伏の修行の場だというだけあって、
荘厳とした佇まいをみせている。
昼食を皆で頂いた。その前に料理の講釈があり、少し解からないところもあったが、だいたい
理解できた、良かった。
 御膳に載った料理の数の多さに驚いたが、ゴマ豆腐の美味しさに涙が出そうだった。
美味しい美味しいを連発してしまった。甘くてしっとりとモチモチで、筆者の大好きな味であった。
 高速道路にある巨大なお土産店にて、思わずゴマ豆腐を買ってしまった。どうして料理し
食べるかも分からずに。
 
 あぁ、よい旅であった。また来ますと思わず皆さまに誓ってしまった。再会をお約束した京都、
出雲、そして鶴岡に江戸川、静岡、名古屋と、次回は1ヵ月は必要になりそう。健康に気をつけ
て皆さまに迷惑の掛からないよう心掛け、日本訪問を夢見て、今年の旅日記を終えたい。
 嶋村会長、城戸さま、ほんとうにお世話になりました。こんな素晴らしい旅をセットしてくださり
夢のようでした。ありがとうございました。

 ひとつ訂正してお詫び申します。
食文化創造都市をアジアでは鶴岡のみと、先回のエッセイで書いたが、日本ではの間違い
でした。すみません!





第26回 2017年6月25日 
1年ぶりの日本旅行 つづき、東京そして鶴岡へ

 何と我が市と、東京都江戸川区は1988年に姉妹都市盟約を結び、来年は30周年になる。
交流は盛んで今も学生たちが20名、毎年夏休みに2週間来てくれる。区の文化交流の方と、
中学校の校長先生が引率、ホームステイ体験をする。喜ばしい事この上ない。
 1980年代に日本とオーストラリア間で、多くの姉妹都市が成立したが、市民のレベルまで
盛んな交流になっている都市がどれほどあるかは、確かめていないがそれほど多くは無い
と思う。
 ただ我が市が去年の5月に、隣の市との合併で市名が消滅してしまっている為、姉妹都市
盟約が来年も継続されるかどうかは分からない。
 何しろ、合併した隣の市は、和歌山県の田辺市との姉妹都市を破棄して数年になる。日本
文化はもう充分知った、お寿司も食べたし歌舞伎も観た。
 今我々に必要なのは、市民の為になる側溝の整備、道路の補修など、姉妹都市より大切
な物がある、ということだった。或いはそれが正しいのかも知れない。
 しかしながら江戸川区と一緒に創り上げてきた我が市の30年の歴史は重い筈である。
特に江戸川区民の寄付で、1994年に完成した「江戸川‐ゴスフォード日本庭園」は、シドニー
市やニューキャッスル市からも観光バスで来てくれるほどになっている。
 木々は育ち、池の鯉は見事なまでに成長して、錦鯉の名に恥ずかしくない色と大きさで、
皆を楽しませている。
 日本庭園として本格的な庭園であり、小さくひ弱だった黒松も立派な姿になった。片隅に
植えられた真竹もいじけずに、真っ直ぐ空へ向かっておおらかに伸びている。

 一市民として是非、姉妹都市盟約の更新ができて、30周年を祝いたいと願っている。9月
に選挙があり、1年半ぶりに新市議会議員と市長が選ばれて、活気が出てくることを願う
ばかりである。
 4月25日に、多田区長さんとシーサイドホテルにて、夕食会となった。2年ぶりにお会い
できた。溌剌とお元気な区長さんだったから喜びでいっぱいになった。親しい方々もご一緒
くださり、嬉しい宵であった。
 4月25日の正午にタワホールにて、東京東江戸川ロータリークラブの例会に、嶋村会長
のゲストで呼んで頂いた。感謝の他には言葉が見つからない。例会の始まる前には、長い
お付き合いの中川さんと、隣の席で語りあえた。
 27日には、毎年開催される6名のお茶会(実際にはおチャケ会)幹事は毎回久美ちゃん
又は健ちゃん、原野ちゃんに妙ちゃん石曽根ちゃんと筆者、全員大笑いしているだけの
お茶会である。筆者は毎回驚きのプレゼントを頂き恐縮する。今年は何故か、「さくらさく」
であった。

 28日早朝6時に、嶋村氏と城戸氏に迎えて頂いて、嶋村氏の愛車で鶴岡へ向かって
出発した。今年の旅の最後に鶴岡、藤沢周平のウナサカ藩を特別に残しておいた。
1年ほど前から嶋村氏が一緒に行きましょうと言ってくださっていたから、遠慮なくお言葉
に甘えてお願いした。

 さて3人の珍道中が始まった。先ずコンビニで水やパン、お菓子などを買い込み、意気
揚々と出発した。車は快適な走りで東京の街から離れてゆくが、巨大な都市だと改めて
思い、見える訳では無いが、後ろを振り返っていた。
 途中サービスエリアで止まってくださったりと、気を使って下さることに心の中で感謝しな
がら、先ず御手洗いへと。日本の公共場所(サービスエリアなど)の御手洗いの発展の
速度に追いついてゆけない気がする。
 帰国の度に驚くのが、先ず御手洗い、空港の、サービスエリアの、ショッピングセンター
のと、公共のきれいに掃除されたトイレ、しかもほとんどが広い、花まで活けてあるのだ、
造花では無く生花だ。尋常ではないこのサービス。
 このサービスエリアのは、ドアを開けると同時にパカッと蓋が開くのには、ギョッとなって
後ろへ飛び下がって、思いっきりドアに背中をぶつけてしまった。ひとりで赤くなっていた。

 昼食はとても珍しい古民家の菜レストラン。此処は嶋村会長の友人、鶴岡ロータリーの
冨田喜美子氏のアドバイスのようだった。実に美味しく珍しいものが食卓に、その上
若当主がご挨拶に席まできてくださった。
 流石は、東京江戸川区と山形県のハーフの嶋村氏。お若い嶋村氏だが、お聞きしてみる
と、戦争中にお父さまが江戸川区から鶴岡へ疎開していたという。小さな子どもたちが多く
疎開したようだ。現在は、鶴岡市と江戸川区は、そのご縁で姉妹都市である。
 因みに嶋村氏のお母さまは山形県出身という。どういうご縁で江戸川っ子のお父さまと
結ばれたのかは、次回訪ねてみようと思う。何しろ山形・江戸川ハーフに、誇りを持って
いる氏がカッコイイのだ。
 話しが逸れたが、その後も順調に走り、鶴岡市へ到着する。

 先ず市役所へ。ウナサカ藩のお城へ伺ったような気分になった。市長を表敬訪問の予定
であったらしいのだが、市長が急遽、東京へ出張になったと言う。それは自然遺産に登録
され受領に行かれたのだということ。誠にめでたい時に遭遇したものである。
 従って筆者たち3人は、山本副市長に表敬訪問しご挨拶が叶った。ユネスコの食文化創造
都市に選ばれたのは、アジアでは鶴岡市だけという栄誉に輝いた瞬間に遭遇したのだ。
嬉しい訪問であった。
 市役所の伊藤敦課長、鈴木晃課長、永壽祥司課長、東京事務所清野健所長、致道博物館
加藤理事、藤沢周平記念館の進藤恵理也氏には丁寧な説明を受けた。
 流石は藤沢氏の地元よく勉強されていて、長年の疑問も解決して在り難かった。2時間半も
居座ってしまい進藤氏にはご迷惑をかけたが、その間、城戸氏は早速何冊かのご本を買って
読み始めていた。
 藤沢周平の小説には、鶴岡の食べ物が多く出てくる。海で獲れる魚から、蕪などの地元の
野菜など、料亭の料理もあり、下級侍の家の貧しい夕飯まで、見事に描かれているので、
そんな事も考えながら博物館の中を見ていると飽きない、よい時間だった。
 致道博物館の加藤徹三理事には、たいへんお世話になった。昔の物がこんなにも大量に
残されている博物館は、珍しいのではないだろうか?筆者にとっても観たことも無い貴重な
物が展示されていて、これらの物をどのようにして、将来に残してゆくか?などと博物館の
一員になったように考えてしまった。知恵を出して行きたいものだ。これほどの物を無くして
はならない。

 旅日記、鶴岡市から帰京までを計画していたのだが、どう考えても先が長そうなので、この
辺で一旦は筆を置くことにする。筆者の書き方の癖で、どうしても寄り道をしてしまう為、申し
訳ないが次回までお付き合い願いたい。次回も素敵な人たちにお会いする予定だから、
請うご期待。

つづく




第25回 2017年6月19日 
1年ぶりの日本旅行 つづき、東京へ

 今年も又、中村家ご夫妻、浦島家ご夫妻、冨田氏と筆者の6名が料亭に集まり、1年ぶり
の話題に花を咲かせた。中村夫人と筆者を除く皆が、「母ちゃん」と呼び親しんだ方の追悼
も兼ねて集まる変な集団である。
 皆が筆者の1年に1度の日本旅行を待ち望んでくださることに、心が喜びで満たされる瞬間
でもある。
 
 明くる日の午前中の新幹線ひかりで静岡まで。静岡駅で大沼氏がお姉さまとご一緒に迎え
てくださり、静岡朝日テレビ局へ向かった。局ビルの玄関の前で、何と北澤社長と今井常務
が待っていてくださったのだ。驚きと感動でしどろもどろの筆者であった。
 北澤社長の穏やかな話しぶりに、筆者も少し落ち着いてきて、歴史大好きだとおっしゃる
社長のお話しを、もう少しお聞きしたかった。でも続きのお話しは来年に繋げてくださった。
社長の次のアポの為、局を後にした。3人でランチに向かった。
 大沼氏は13年間同じ番組のキャスターを担当している為、知らない人が居ないこともあり、
街を歩いていると皆さんから声をかけられるという人である。どなたにも明るく挨拶をされる
彼を見ていると、筆者もテレビを買って、テレビを見ようかと思ってしまうほど素敵なのだ。
考え方、生き方までも替えてみようかと。
 我が家にはテレビも電話も無いから、タダで配られる地元新聞を読み、インターネットの
ニュースを時々読む程度のことだからどうしても実社会から外れることになる。
まぁ、いいか!

 またひかりに乗り東京まで、JR御茶ノ水で降りて何時ものホテルジュラクへチェックイン。
高橋英里奈氏がにこやかに迎えてくれる。二十数年泊めて頂いているが、彼女は今でも
少しも変わらず笑顔で迎えてくださるが、実に若々しくスマートだ。
 本(読書)仲間の永井氏と朝食を共にして、1年ぶりの本の話しと、四方山話をする。
彼は毎朝ご自宅から歩いて、このホテルの食堂までいらっしゃるのだが、距離は結構
ある筈であるが健康の為に歩いていらっしゃるのだろう。全く異次元の話しをしてくださる

ので楽しいこと、この上ない。彼の読書量は半端じゃない、猛烈な読書家である。
 彼曰く、村上春樹?あれは作家とは言えない、読む時間が勿体ない。筆者も同感である。

 ニューオータニのガーデンレストランにて、山下氏とのランチを楽しみ、来年の約束をして
右左に別れた。山下氏とのランチも、もう何年になるだろうか?月日の過行く速さに戸惑う
ばかりだ。
 夜の約束が神楽坂だったので、本を読みながらニューオータニのロビーで時間を潰して、
神楽坂へ向かったが、約束の時間になってもご夫妻に会えなくて公衆電話からかけてみた。
 何と中川家のお二人は、ずうっと筆者を待っていてくださったようで、完全に筆者の読み
間違いであった。申し訳ないことこの上ないことになってしまった。結局は会えて良かった
のだが、今でも思い出す度に赤面をしている。すみませんでした。
 赤城神社の境内で杉浦君にも会えた。若いけれど尊敬できる人になっている。ご両親も
お元気とのこと、良かった。友人たちがお元気で、やはり大きな安堵になる。

 今回は筆者も酒造会社に挑戦した。挑戦とは名ばかりで飲めないけれど、橋本ご夫妻
に誘って頂いて、立川の古い酒造会社を訪ねた。中のレストランでランチその後、酒造り
の見学コースに加わり、日本酒の微妙な味に拘る人々の努力の賜物、此処にも日本の
伝統と文化が綿々と続いているのを、目の当たりにして改めて日本文化を感じ取った。
橋本さん、奥さま、ありがとう!
 長い年月を海外で暮らしていると、失う物の多い事も然ることながら、筆者の年齢になる
と見事に忘れてしまって、妙に新鮮に感じることに驚くのであるが、日本の中で暮らしている
と、日本の良さも、日本文化の強烈さもそれほど在り難く感じないのかも知れないと、勝手
に思ったが当たっているだろうか?
 数日後に姉妹都市の江戸川区へ、そしてホテルにチェックイン。

 何でも高額な世の中だが、此処は筆者向きの安いホテルだ。部屋はチェーン店にしては
広くて、居心地はよい。
 早速、友人の仁ちゃんに眼科へ連れて行って頂き治療を受けて、今までモヤモヤとして
いた訳の分からなさに決着がついた気がした。白内障の手術だし、正味5~6分の手術、
それほど重く考えていなかったこともあり、筆者の後悔が続いている。
 結局のところ、手術は成功していたが、その後のケアーがでたらめで、両目に傷がつき
その為、目が何時までも痛く、視力も戻らなかった原因であった。
 一ヶ月分の目薬を頂いて帰り、今は友人がその目薬を買って送ってくださっている。
仁ちゃんありがとう!
 イトーヨーカ堂のメガネ屋さんで、メガネを新しく調整して頂き、妙ちゃんに会ったり、
メガネ無しで何日か過ごしたが、その間に、新しく知り合ったオーケストラの指揮者だった
ご家族に、イタリアンレストランに招待して頂いた。奥さまのお母さまもご一緒して、溌剌
とした長男の怜那さんもご一緒だった。
 何と驚きは、音楽一家であった。江上氏自身は、作曲から始まり楽器は何でも弾ける
のであろう、何しろ指揮もされて音楽指導もされているのだから。奥さまもオペラ歌手、
怜那さんも芸術大を出られて、オペラ歌手としてスタートする模様だ。
 実際にYouTube で、奥さまと怜那さんの歌を聴いたが素晴らしい。それも江上氏が
高校生の時に作曲したものだという。殆ど開いた口が塞がらないほど驚いた。もちろん
江上氏のピアノでお二人が歌っている「錦のながれ」美しい声だ。

 次回も未だ東京での事を綴りたい。今年の旅は1日として無駄な時間の無い旅行で
あった。まだまだ人生学ぶ事ばかりだと実感した。多くの友人たちに助けられて、
最高の旅となった。
 最後に訪問した、鶴岡がまた最高だった。長年夢見ていた出雲国と、藤沢周平文学
のウナサカ藩、雰囲気だけでも味わいたいと思っていたのだが、時間が足りなかった、
素晴らしかった。
 もう一度訪ねたい。藤沢周平記念館に、2時間半も居た人は、今までにいないと呆れ
られたが。

つづく




 

第24回 2017年6月14日 
1年ぶりの日本旅行 つづき、雲南市にて

 博物館を出て一路出雲湯村温泉へ向かう。次第に山々が圧倒的な迫力で迫ってくる
地域へ入って来た。そんな中にも村が点在していて、何処も桜が満開である。桜祭りの
提灯もあちらこちらに点滅して春爛漫の中を走る。
 西村氏曰く、雲南は隙あらば桜を植える、と冗談とも本気とも言える口調で繰り返していた。
清らかな流れの斐伊川に沿って更に山の中へと進むと、雲南市木次町の出雲湯村温泉
「湯乃上館」へ到着した。旅館の前には、昔ながらの紅いポストが立つ、1年前にこの風景を
写真で見た時、心に刺さったイメージのままの姿で旅館が其処にあった。

 とても静かな旅館だ。出雲国風土記に出てくる温泉がこれか!と、年甲斐もなく大興奮を
してしまった。とにかく何も無いのがよい。
 派手なおもてなしは無いが、とにかくお湯が良い、最高のおもてなしの湯、薬湯と言われて
いて、1300年間1度も湯が涸れたことが無いという。
 44度で湧き続けている、浴場では少し冷えて43度になっている。源泉かけ流しの贅沢には
驚いてしまった。
 出てくる源泉を両手で受けて、何度も飲んだ、身体の中まで清らかな水が流れる感じだ、
思わず、美味しい!
 丁度身体にあう温度で、長い間温泉を楽しんで、布団に入っても何時までも身体がホカホカ
と温かくて、身体の疲れが取れエネルギーが戻ってくるようなリラックスを感じている。
 加えて食事がよい。旅館のご主人自らが、茅葺の楽楽庵にて焼いて出して下さる魚(テニス
の錦織選手が帰国したら食べたいと言ったノドグロ)彼のひと言で値段が跳ね上がったという。
 島根和牛のタタキ、地元で採れるものばかりの山菜など、いずれも珍しくそして美味しい。
お茶も料理もご飯を炊くのも源泉を使うと言う。筆者には極上の贅沢であった。
 
 何処にでもある温泉街とは全く違う。どなたでも普通に来て入浴料を支払えば、温泉に入る
ことができるから、地元の人たちはお家のお風呂を使わない人たちもいるだろう、と思う。
 旅館は1日、2組しか受けていない。ひなびた情緒があり、静かな癒しの2晩であった。
 因みに、この湯村温泉「湯乃上館」は、この度筆者を案内して下さった西村氏の実家である。
お兄さまが経営している。ゆったりと構えたところは兄弟よく似ているし、自然体で温かい感じ
を受けたが、全く欲の無い旅館長さんだった。
 賑やかな旅館が好きな方にはおススメできないが、静かな山の中の薬湯をご希望なら、是非
お薦めしたい、身体が喜ぶことは保証できる。最高の湯だ。

 明くる日は、加茂岩倉遺跡へ行き、銅鐸の発掘時の状況が復元されていて、2000年前の
埋納坑が少し残っていて、中を覗いてみた。2000年ですよ、2000年!感動しない訳がない。
 2014年に初めて松山を訪ねた時、松山城で知り合った松江の田村氏が、わざわざ会いに
遺跡まで来てくださった。奥さまはご用があって来られないと残念がって下さった。

 次は荒神谷遺跡へ。此処でも発掘時の通りに復元されたものが見られた。いやぁ~驚き
の数、銅剣358本、銅鐸6個に銅鉾16本という信じられない大量の発掘、気が遠くなりそう!
 加茂岩倉遺跡の銅鐸39個も、荒神谷遺跡の銅剣、銅鐸、銅矛も現在は、県立古代出雲
歴史博物館にて管理展示されている。もちろん平成2(2000)年に、出土した宇豆柱も正面
ロビーにある。
 友人の秋田の阿部氏が、出雲国が大和政権と張り合う力があった事が、あの出土品を
ニュースで見た時に理解できたんです、と書いてくださったので、筆者も大きく頷いている。

 この前も書いたが、次回出雲を訪ねる時は、鍬を担いで行きあちこち掘ってみたい。
許されない行為だとは思うが、出雲は古代へロマンをかき立てる不思議の国だ。

 松江城へも行った、国宝に指定されたと言う。素晴らしいお城だ。街並みも侍時代の所が
残っていて、城下町の良さを味わえた。
 宍道湖をぐるりと廻り、帰りはまたトンネルを幾つも通って、西村氏には申し訳ないがトンネル
を堪能して、福山で降ろしてもらった。
 憧れの新幹線のぞみに乗って、名古屋の友人たちに会って久闊を詫びながらも、料亭の
ディナーをご馳走になり、明日は静岡だ。1年ぶりに友人に会える。

つづく





第23回 2017年5月30日 
1年ぶりの日本旅行 つづき出雲へ

 4月15日土曜日、出雲へ、イザ! 先ずは世界一のこの橋、「しまなみ海道」それぞれ
の橋が形を変え趣を変えて、目の前に現れては過ぎてゆく。筆者の絶叫と共に超えてきた。
運転して下さる友人には迷惑この上ない。
 この世界一の橋は、河の上に架かっている訳ではないのだから、潮風に晒される環境
のなか、雄姿を見せてくれる。これが感動でなくて何を感動するのだと思うと、やはり西村
氏には悪いが、声が裏返ってしまう。オバサンの多少の恥じらいも混じって。

 次は広島県「やまなみ海道」へ。此処からは筆者の真骨頂トンネルである。まぁ何とも
素晴らしいトンネルが続いて、自然に涙声になりながら、日本のトンネル技術に圧倒されて、
抑えることができずに裏声は更に絶叫となる。
 天井の形、電燈の色やその間隔にも、それぞれ工夫が込められている。短いトンネルは
別だが、大抵のトンネルは入り口から緩やかにカーブになっていて、ずうっと先にある筈の
出口が見えてこないところが、妙に不安でミステリアスなのだ。出口に近づいてくると、灯り
は色を混ぜて煌びやかになる。
 夜ならほんとうに美しい光の輝きが見えるだろうと思う。次回は夜にもトンネルを走りま
しょうと言ってみたが、微笑みが返って来ただけであった。

「僕はねぇ、トンネルは嫌いなんだ、それより美しい山々に咲く山桜を眺めながら、春の
景色
を楽しみたい、トンネルは嫌いだ」と、宣言されてしまった。
 トンネルの技術と美しさに感動の涙目の筆者には、強烈な一言であったが、よくよく
考えてみれば暗いトンネルの中より、緑の山々の中に咲く桜の方が美しいに決まって
いる。加えてこの時季の山は燃えるような勢いがあるから、オーバーに言えば秒毎に
色を変える時季なのだから。
 それでも筆者はめげずに、トンネルに入る度に歓声をあげていた。そして西村氏が、
筆者に付けたタイトルは、トンネル評論家だった。

 車は順調に走り、午後二時に島根県出雲に着いた。早速、お蕎麦でお腹を満たし、
出雲大社の鳥居門の横で写真に納まる。長年の夢の国、出雲国へ着いた。先ず
出雲大社の神殿に心を込めてお参りした。
 隣の出雲大社北島国造館へも脚を伸ばし、亀の尾の滝で拝み、結婚式の賑わい
の残る庭を抜けて、いよいよ古代出雲歴史博物館へ入った。

 開館10周年記念企画展が迎えてくれた。語り継がれる古代の出雲、出雲国風土記
の特別企画、昔話風に良く解かるように動画もなかなかよく出来ていた。子供の頃から
馴染んできた、因幡の白兎、大国主命など耳に心地よい。見学者には新しく美しい博物館
に、古代の物語がいっぱい詰まった博物館だった。
 とにかくどうしても見たかった西暦2000年に境内遺跡より発掘された巨大宇豆柱を、
この目で確かめられたこと、感動の瞬間でもあった。子供の頃から、天へ向かって何処まで
も高く建つ、神の社を夢見ていたのだから。
 更に奥へと進むと、心臓の鼓動が自分の耳にも聞こえそうになり、しばらく立ち止まって
落ち着こうとした。
 にも拘らず、銅剣の展示前へ来ると手も足も震えた。これは凄い!、実際たいへんな宝物
の前に立って居るのだと思うと、やっぱり震えがきた。
 一緒に館内にいる西村氏は、古代の物を見慣れているのか、銅鐸の前で近づいたり少し
距離を取ったりして見入っている。何時もの腕を組んだスタイルで。
 閉館の時間が来た、午後6時である。音楽が閉館の時間を皆に知らせているが、去り難く
展示の前にへばり付いて見ていると、「どうぞ未だいいですよ」と、係りの方が親切に言って
下さった。あまりに熱心に見ているので、追い出せなかったのかも知れない。申し訳ない
ので、お礼を言って出たが、名残惜しかった。
 
 荒神谷遺跡からは、銅剣は358本、銅鐸6個と銅矛16本が発掘されて今では全て、国宝
に指定されている。これらが2000年もの間この場所に眠っていたのかと思うと、刀の1本1本
が愛おしい。
 加茂岩倉遺跡からは、大小合わせて39個もの銅鐸が発掘されて、今、目の前で青く光って
いる。素晴らしいの一言である。もちろん全て国宝である。
 出雲の国は、可笑しな国である。道路を造ろうと企画して掘り始めると、2千年以上も昔の
物が出てくる。何とも不思議な国である。
 次回は筆者も、鍬を担いで来て、あちこち掘ってみようと画策している。土の中から大昔の
神さまがひょっこり現れるかも知れない。

 明日は、実際の出土した、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡に行くことになっている。楽しみだ。
 今夜の宿は、出雲湯村温泉、湯の上館である。出雲国風土記に出てくる温泉で、一度も
涸れたことが無く、湯を足したり水を足したりしたことの無い、正に源泉かけ流しの温泉だ。
薬湯として知られている。

つづく





第22回 2017年5月20日 
1年ぶりの日本旅行

 ここ数年は羽田に着く便で行っているが、1年前の羽田と今年は違っていた。
 僅かに1年でこの発展は何だ!と思うほどの充実した内部、ゲートに向かって歩きながら
煌びやかに変わった両側の店、高級ブランドのお店や様々なお土産物店が並んでいた。
 食事する所も整っており、寿司屋さんの前には長い行列ができていて、そのほとんどが
日本人ではなかった。
 驚きの素早い発展、流石は日本だと感心してしまった。カンタス航空のゲートのソファー
の横の柱には、携帯電話の充電ができる電源コンセントが至る所に設けてある。筆者も
早速空いた所で使ったけれど。驚きと喜びと共に。

 今回の日本旅行は特別に素晴らしかった、感動の連続でもあった。
 先ず、羽田から松山へ飛んだ。羽田は晴れていたが、松山は雨だった。友人が空港で
迎えてくれて、早速しまなみ海道へ向かった。松山市役所の中矢さんたちが、オーストラ
リアからの友人、ラグビーの加藤さんとケアレンさんと共に雨の中、しまなみ海道を
自転車で走っていた。

 合流して村上水軍の島、大島宮窪町の網本の村上水産にて、大歓待を受けた。
 筆者も含めオーストラリアチームには初めての、獲りたての魚の刺身、鯛、ヒラメ、イカ、
ハギにしめ鯖と、貝類はサザエにアサリだった。アサリはもちろん自然の物で巨大、直径
5~6センチはあっただろう。そのつぼ焼きなど、目くるめくご馳走だった。
 その後は、雨の中にも拘らず船を出してくださり、満潮に向かって流れてゆく渦潮の中
へ船を近づけて、轟々と唸りを上げる潮流の回転を見せて頂いた。
 島と島の間を物凄い勢いで流れ渦を巻く、鳥肌が立ったのは、寒さと雨の所為ばかり
では無かった。
 昔の水軍の名残りの遺跡が、あちこちに見られた。20~30坪ほどに見える小さな島に
も、神が祭られている。
 仏像までも建立されている島もあり、地域の人々の海に対する感謝と畏敬、また荒れ
る海への恐れもあるのだろうと。自然の恵みと、暴れ狂う海もまた自然なのだと、美味し
い刺身を戴きながら思った。
 また船から眺める島々の美しさは言葉にできなくて、ただワァワァーと馬鹿みたいに
唸っていた。新緑の緑の中に咲く山桜は、見事に調和した日本の美だと思うと、妙に
込み上げてきた。

 大降りになった雨の中、亀老山展望台へ登り360度の眺望、雨の中でも圧巻であった。
この展望台は隈研吾氏の設計だと聞き、なるほどと思った。素晴らしい建て物なのに、
しっくりと山の一部に溶け込んで、全く違和感が無い。
 晴れていれば広島は勿論の事、九州までも眺められたのではと、その点のみは悔しい
思いだった。

 四度目の松山、いい街だ。流石は十五万石の城下町、落ち着いたゆとりを感じてしまう。
 今回は道後の椿館へ宿泊した。今までは宝荘だったが、新築ホテルに生まれ変わるそ
うで、取り壊し中であった。次回には新宝荘になっているかも知れない。
 愛媛新聞社を訪問し、土居社長から直接賞状を頂いた。身に余る光栄であった。嬉しい
を通り越して舞い上がっていただろう。
 秋山兄弟生誕地を訪ねて、メル友の宇都宮理事にまたお話しを伺うことができた。何度
お聞きしても、明治の人々の未来志向の考え方に圧倒される思いがした。勉強の仕方が
半端じゃないし、読解力の凄さには、現代の私たちは太刀打ちできないだろうと思いなが
ら、聴き入った。

 その後も、花ちゃんに会ったり、友人になった阿久津さんとドライブをした。彼女の運転で
南へ走った。途中のパン屋さんへ寄って、国道の桜の下でパンのランチ、二人で草の上に
座り、海を眺めゆったりとした時間が流れた。
 大好きな橋を幾つも通り、トンネルを抜けてゆく。古い紅い橋も渡った。日本らしい景色の
中を友人の運転でのドライブ、最高の贅沢であった。
 その夜は泊めて頂き、かなり緊張したが、朝ご飯が旅館のようにテーブルに並んで驚い
た。それにご飯もみそ汁も魚もみんな美味しかった。オーストラリアの我が家の朝食は、
鳥の餌のようなウィートヴィックス1個にミルクをかけただけの簡単な食事だから、つい頭
の中で比べてしまった。
 またお母さまの形見の靴を2足も頂いた。サイズも丁度ピッタリで、薄ピンクの靴は特に
軽くて毎日履いている。黒い靴もおしゃれでシドニーまで遠出の時に履いたり、この前は
正式なパーティに出席した際に履いて行った。いずれも履きやすくて友人と一緒に出席
しているように感じてしまった。ありがとう!

 もう一人の友人西村氏と、これから長年の憧れの出雲へ向かう。花ちゃんのお父さんと。

つづく!


 

第21回 2017年3月24日 
オーストラリアNSW州のゴミ収集
(我が市の場合)

 3月4日と5日の週末2日間、市のショーグラウンドにて、危険物のゴミを持って行き処理
してもらえることを、昨年からの市役所のホームページで確認していた。
 家にある油や化学薬品やペンキなどであるが、我が家もじいちゃんが使っていた油絵の
油や、訳の分からない液体がじいちゃんのアトリエからたくさん出て来た。
 古いペンキの缶も多く、ほとんど使っていない4リットル入りのペンキもあったが、何時の
時代の物か分からないので捨てることにした。トランクいっぱいの危険物を運んで行くと、
規制されたオレンジ色の三角錐(コーン)の置かれた通りに沿って走る。
 市職員が誘導してくれている門内へ入って行き、指示に従ってトランクを開けると、市役所
の職員数人で全部持ち出してくれて終わりであった。
 運転席にいるだけで何もしなかった。

 1年に1回、多くても2回だろうと思う。何故なら去年の9月頃からこの日を待っていたの
だから。

 次に、普通のゴミの収集について書いてみたい。

 上記の写真を参考にして頂くとよく分かると思う。蓋の色でゴミ内容が分かれる。我が
地域(イーストゴスフォード)は毎週水曜日の夜に家の前の道路に出す。そして木曜日の
早朝から大型トラックが回収に来る。
 赤色(120リットル)は毎週出すことができる。赤色は台所から出るゴミなどで燃えない
ゴミ箱(頑丈なプラスチック製)。
 黄色は倍の大きさで(240リットル)隔週で紙や瓶や缶などのリサイクル用。 
緑色(240リットル)も隔週で、庭の草刈り後の草や木などの植物の廃棄物である。
 従って隔週の黄色と緑色は交代になる。今週は赤と黄色、来週は赤と緑色という具合で
ある。

 残念ながら、先々週から2週続いてゴミ回収がその日に来なかった。今週は普通に戻って
くれればと願っていたが、やはり昨日は1日待ったが来なかった。
 在り難いことに今日(金曜日)の午後来てくれた。もし今日ダメなら週末になるから、月曜日
までとなると流石に生ごみは困るだろうと、どうにもならない心配をしていたのだ。
 理由が何かは知らないが、去年(2016年)の5月に我がゴスフォード市と隣のワイオン市が
合併し、新しくセントラル・コースト市(Central Coast City)になった。
 人口は凡そ30万人となり、2100平方キロ余りの面積となる。東京都より少し小さいが、まぁ
この国の地方都市としては、人口から考えても大きな市と言えるだろう。
 その新しい市に未だ市議会議員が居ない。去年の5月なのだから、9月の選挙がある筈
なのに無かった。
 今年の9月の選挙で漸く市議会議員が決まる予定である。凡そ30万人の都市に、
1年半も市議会議員が居ない事自体が大問題なのではないか?
 合併するならきちんと準備をして合併すべきで、とにかく合併して後のことは後でゆっくり
決めようというのか?
 オーストラリアらしいのんびりさというか、それでも事が進行して行くのだろうからよいの
だが、ゴミの回収も儘ならないのでは困ると思うのだが。
 さまざまな名目を付けて、地方税はしっかり上げてくるのに。

 大型のゴミ回収車のトラックには、運転席が両サイドにあり、ゴミを集める際には左側の
運転席で運転し、道路の左側のゴミを回収してゆく。もちろん反対側の道路のゴミも同じ
ように左側から回収する。ゴミ回収時のみ左ハンドルになる。
 鉄製の腕のような形の掴み取るマシーンが、ゴミ箱の両横を挟むように掴み、トラックの
上まで上げて、ゴミを特定の場所に落とす。そして掴んだままゆっくりと元の場所へ置く。
(写真参考)
 下手な運転手や乱暴な運転手は、ゴミ箱をきちんと元に戻せないこともある。まぁそれ
くらいは愛嬌であるが。
ゴミの回収が終わると、運転手は右ハンドルに戻って、普通に道路を走って遠くのゴミ
捨て場へ行くようだ。

 因みに、オーストラリアは全ての車が右ハンドルで、左側通行である。日本と同じだが、
輸入する外国車も全て右ハンドルになっていなければ、この国の道路は走れない。たぶん
輸入もできないだろうと思うが、確認はしていない。

 

 





第20回 2017年2月20日 
真夏に咲く花
(色とりどりのサルスベリ)

 毎朝、ポチに連れられて日の出前に家を出てゆく。さまざまな鳥たちがさえずり、暑さの
前のひと時、あちこちに咲く夏の花を眺めながら歩くのは、花たちが輝く瞬間の早起き
三文の得かな。
 その中でも、百日紅が一段と眼をひく。赤、ピンク、紫っぽい赤、白いのも清廉な感じで
咲いている。圧倒的にピンクが多いが、濃いピンクから薄いものまで、色が違って美しい。

 先週の事、友人(ヘレン)と江戸川日本庭園で8時半に待ち合わせて、少し早いモーニング
ティをした。
 ヘレンはシドニーの家を7時に出ても、シドニーからこちらへ向かう高速は通勤ラッシュの
反対になるためガラガラで、1時間と少しで着くのだと言う。
 コーヒーを飲みながら、彼女が庭園から見える百日紅を指さして、あの花(Crape Myrtle)
が何故、日本語では猿(モンキー)になるのだと訊いてきた。
 一瞬のこと、彼女が言ってることが解からず、モンキー?と訊き返すと、日本語ではそう
呼ぶのでしょう、と。
 ああ、そうかぁ、サルスベリだものと思うと可笑しみが湧いて思わずニヤリとなった。
猿も滑り落ちるくらいに幹がすべすべという木なのだと、何かの本で読んだことがあるが、
昔の遠い記憶である。

 ヘレン曰く、あの花に何かモンキーが係わっているのだろうが、それが何か判らないと、
首を傾げる。
 百日(ひゃくにち)紅(クレナイ)でサルスベリ、、、か、なるほど3ヵ月余りは咲いてるなと
思った。これは日本語の漢字だからこうなるのか?それとも中国からの漢字で、何世紀も
前から中国でこう書いていたのか?広辞苑で調べてみると、中国南部が原産であると記
されているが、ヒャクニチクレナイの漢字については、中国とは書かれていないから、この
漢字はどうも日本人の仕業ではないかと思う。筆者の独断と偏見に依る。

 もし日本でこんな風に発展したのなら、日本は凄い国だと思わずにはいられない。
 100日紅く咲いて、しかも猿が滑るほど木の幹はつるつるであるという。我が家の庭の木
に触ってみると、他の木に無いつるつる感、やっぱりサルスベリだと思った。
 しかもこの国の真夏、灼熱の陽炎の中でも、鮮やかに新鮮に咲いているのだから、この夏
は特に暑く40℃前後が続いている中で、他の花は萎れて見るかげも無いものが多い中で、
毅然と空に向かって立っている。

 英語だとcrape myrtle(ちりめん花、又はちりめん草)、誠に観たままの名づけで、これも又
一種の英語文化なのか?割に単純な英国人の良さでもある。
 月に1回くらいの割で、ヘレンが訪ねてくれるので、情報交換をするよい機会になっているが、
マサカ百日紅の解釈について話しが出るなどは考えていなかったから、面白いコーヒータイム
になった。
 因みに、我が家の百日紅は、赤紫で余り見かけない色である。毎年少しづつ色が薄くなって
きてはいるが、毎年美しい花を咲かせて、木はどんどんと空に向かって伸びている。
 以前は塀の高さに切り揃えていたが、ここ数年は伸ばし放題である。何故か切ることに抵抗
が出て来た。心の中で、伸びたいなら伸ばしてやらなければと。
 これも筆者の年齢によるものと思われるが、自然にあるがままに、と考えることが多くなった
ように思う。

 このエッセイの百日紅について、どなたか教えてくださればと願っている。もちろん調べてみる
つもりではいるけれど。

 この場をお借りして、報告です。
長い間、皆さまにご心配をお掛け致しました私の目は、先週の水曜日にレーザー治療で、少し
良くなりました。車の運転がかなり楽になりました。
 しかしながら、以前の視力には到底戻ることは無さそうですから、皆さまも、もし白内障の簡単
な手術と思わないで、とことん医師と話し合って決めてください。私の轍を踏まない為にも。

 今日は、真夏の花、百日紅について。

 

 


第19回 2017年1月28日 
穣といち子の子孫
(オーストラリア社会で繁栄する子孫たち)

 1月16日から3日間、ヴィクトリア州ベンディエゴ市へ行って来た。新しいこの国の市と
しては、早くに発展した地方都市で、曾て金鉱で賑わった所でもある。
 オーストラリア最初の銀行、ベンディゴ銀行が1858年にオープンしたのも此処である。
古い家々に混じり、新しい住宅も増えて来ていて、見事に新と旧が共存している街並み
である。
 普通の住まいは、まだまだ一軒家で平屋が圧倒的に多いから、青い空が広く高く、遥
か彼方に見える丘まで、ずぅっと向こうまで広い空が、高層ビルに慣れた我が目に痛い。
とにかく明るいのだ。到着後2日目は42℃の気温に、太陽光が真っ直ぐ筆者を射てくる。
逃げる場所が無く熱風がそのまま顔に被さってくる。
 突然、110年前の穣の稲作が頭に浮かび、この酷暑の中で働き続けた穣、明治人でな
ければ成し遂げられなかっただろうと思いながら、お孫さんのヘンリーの家に向かった。
 ヘンリーは愛子の次男である。スワンヒルに住む長男のマレーも妻のドロシーと共に来
てくれた。マレーご夫妻とは中庭を隔てた同じモーテルに泊まりご一緒した。優しい顔で
ゆっくりと話す。この人、小さい頃、可愛かっただろうなぁと思いながら。

 ヘンリーとジーン夫妻は、南オーストラリア州のアデレードに長年住んでいたが、去年
ベンディゴに移って来たのだ。
 長女のノーナとレイご夫妻が、今回の筆者の訪問を取り仕切って下さった。彼ら全員が、
高須賀穣といち子の子孫であることに誇りを持ち、この国で逞しく生きている姿はやっぱり
凄い。
 2年前に取材した時と同じように、いち子の墓参りを済ませ、長男の昇のステンドグラス
のある教会へ行き、昇が7年間務めたハントリー郡の古い庁舎も外から見学した。
 第2次世界大戦で、オーストラリア兵として5年間戦場にいた、次男の万里雄のプレート
が埋め込まれている場所も訪問した。

 そして42℃という暑い日であった火曜日、ヘンリーとジーン夫妻の新しい家で1日を過ご
した。
 その日の、穣の孫の3兄妹の写真を添付しよう。ヘンリーの長女(ひ孫)のダイアーンが
書いてくれた系図をみると、6代目まで順調に系図が伸びているのだ。
 ダイアーンは、ビクトリア州政府の職員で、教師の育成に力を発揮しているようだ。ひ孫
のひとり(昨年癌で他界されたフランクの娘)は、理系の大学教授になっているという。
 彼ら4人の孫たちの子供たち、職業として教師が多いようだ。祖母にあたる愛子が、結婚
まで11年間小学校の教師をしていた影響もあるのだろうか?
 国策が白豪主義であった時代に、白人の子供たちに日本生まれの日本人が、教師として
11年間も教えられたのは何故?かと、ミステリーのような話しで、この日は盛り上がったのだ。
確かに不思議だねぇと皆で頷き合ったが答えは出なかった。

 一番若い6代目15才の少女まで参加した夕食会、楽しい楽しい時間であった。18日の夜、
飛行機も遅れることなく無事に帰宅できた。
 そして2日後の1月20日、筆者にとって夢見ることさえなかった事件が起きた。
「穣の一粒」が、第32回愛媛出版文化賞の文学の奨励賞を受賞したのである。こんな光栄
が筆者の人生で発生するとは考えたことも無く、正に青天の霹靂であった。
 嬉しい以外の言葉が浮かばす、嬉しい嬉しい夢のよう。もしかして、これは夢?

 2017年、今年も何卒よろしくお願い申し上げます。






2016年

第18回 2016年11月28日 
読書の醍醐味
(小説の中にある変動する社会)

 7月7日の七夕の日に書いたエッセイを最後に、長い間休んでしまった。8月は筆者らし
くもなく妙に忙しくしていたし、9月1日の目の手術により不自由さもあってサボっていた。
9月20日の右目の手術の後は、何とも信じられない最悪となった。
 白内障の簡単な手術だと思っていた事が、後悔と強い反省となっている。
従って3ヵ月間、思うように読書ができず発狂寸前の生活を送っている。12月14日に
再手術が決まり、その後は回復に向かうだろうと思うし、願っているけれど、これほど
までにモタツクとは筆者の調査不足であった。悔しいが3ヵ月もの間、ほとんど本を
読めずに悶々となっている。
 ばあちゃんが残して行った、大型レンズを使って読んではいるが、直ぐに頭痛が始まる
から、なかなか思うようには読めない。これが年齢を重ねるということなのか、それとも医者
の技術の無さか、筆者の運の無さか。

 東京に住んでいる友人が、山崎豊子の「不毛地帯」の文庫本を5冊送ってくれた。筆者の
本は40年余りも前の単行本で、昔流の1ページ2段に書かれたもので、字も小さい不毛地帯
4冊の初版ものであったから、軽くて読み易い文庫本を頂戴したのだ。
 この不毛地帯は、何度読んでもダイナミックな流れと入念な下調べに圧倒される。大好きな
作家の一人である。
 主人公の壹岐正が辞表を提出し退職する時に、これからは「組織の時代」だと言う。
一人のワンマン社長ではなく、組織で動く時代なのだと。
 2014年2月に出版された山崎豊子の最後の小説 「約束の海」は未完となってしまったが、
ご冥福を祈りたい。長い間、夢をありがとうございました。

 不毛地帯から半世紀近くの年月が過ぎた今は、池井戸潤や東野圭吾、宮部みゆきなど
新しい何十人もの素晴らしい作家たちが、これでもかこれでもかと面白い小説を出版し続けて
いる。実に愉快で大胆で緻密な内容、面白い小説ばかりである。
 その作家たちの著す小説の中で必ずと言ってよいほどに、「組織の論理」に対する反論が
出てくるのだ。なるほど、面白いなぁと思う。
 山崎豊子の小説から、池井戸潤宮部みゆきの時代の流れの中で、現代の作家たちが常に
見つめている目線と、将来への期待みたいなものが伺えて、読者としては胸躍るような気分
になる。次の作品が早く読みたくなるのだ。

 また違う視点とでも言うべきか、時代小説の分野でも山岡荘八、山本周五郎、藤沢周平など
素晴らしい小説を次々と出してくれた。筆者の大好きな司馬遼太郎は、時代小説は勿論のこと
「この国のかたち」「街道をゆく」「以下無用のことながら」など何でも広い視野に立たれて
著し、読者を居ながらにしてさまざまな世界へ導いてくれた。
 明治時代の文豪と言われる、漱石や森鴎外なども夢中で読んだものだ。
ミステリーの松本清張は、静かだが怖い小説を書き続けた。

 本は、喜びの娯楽、知識の源、自然な形で集中力まで付いてくるのだが、この頃は本は
読まないと言う。
 この前のインターネットのニュースで、中学校と高校の教師が本を読まないし、大学生は
読書をしないのだと書いてあった。ほんとうだろうか?
 俄には信じられない、教師が本を読まないとはどういう事なのか、深く考え込んでしまった。
これも時代なのか。

 最近、シドニーの友人が貸してくれた「食の終焉」を読んでいる。
 アメリカワシントン州のポール・ロバーツ氏の書いたもので、神保哲生氏の翻訳によるもの
だが、グローバル経済の中の食の安全や危機、豊かになり過ぎた世界の食が、これから
どうなるのか?
 面白く無い本だと思って読み始めたが、実に面白いし、身につまされる事実だからこそ、
引き込まれてしまった。神保氏の翻訳の上手さもあるだろう。

今日は久しぶりに読書について。

 

 

 

2016年

第17回 2016年7月7日 
選挙について
 (投票に行くことについて)

 今日は七夕で、井戸で冷やした西瓜を食べ、線香花火を1本づつもらって、短冊に
願いを書いた七夕祭り、細やかな夕方の楽しみを思い出した。線香花火1本が殊の外
嬉しかったものだ。
 日本社会は成熟して豊かになり、線香花火1本もらって喜ぶ子どもはもう居ないの
かも知れない。
 午後小学校から帰ると、何回も井戸を覗きに行ったものだ。西瓜が吊り下げられて
いるのを確認する為に。

 残念ながら今朝の我が市は、昨夜からの雨が続いているが、今夜までには上がる
だろう、織姫と彦星は今夜逢えるだろう。短冊の筆者の願いは、単純に 「雨上れ」

 オーストラリア連邦政府の選挙が、7月2日の土曜日に実施された。下院議員150人
を選ぶ選挙だ。歩いても行ける公立小学校へ行き投票を済ませた。
 学校の門(フェンスの前)の前に並んだ、それぞれの政党の支持者たちからチラシを
受け取る。投票する順番が書き込まれた見本のチラシをもらって、投票場になっている
講堂へ向かう。長い列が出来ているのでその一番後ろに並んで待った。
 方法は日本とほぼ同じで、自分の住む選挙地域の立候補者の政党を決めて投票する。
 一つ大きく日本と違う事は、選挙の時には必ず行って投票しなければならない。
国民の義務であるからだ。何らかの方法で投票しなければ罰則があり、罰則金を
支払うことになる。


 筆者が未だ国籍を日本国としていた頃、長い間日本国のパスポートを手放すことが
出来ず、移住者としての滞在許可(Permanent Visa)で暮らして居たので、選挙に行く
必要は当然無かったのだが、じいちゃんとばあちゃんを連れて、投票場へ車で送り駐車
した後、二人を会場まで連れて行くことが長年続いた。
 ある時、もう選挙に来るのは嫌だから止めにしたいと、じいちゃんが歩くのが辛くて
苦情を言った。そんな事は出来ないと思うが、何か方法があるか訊いてみましょうと
応えておいた。
 ふたりは80代後半、歩くのは歩行器が無ければ歩けない。車のトランクから出した
歩行器を押して会場まで校内を歩くのは、ふたりにとって楽なことでは無かった。
 順番が来て、名前を告げて選挙に来た事を証明する印を付けてもらうと、2種類の
投票用紙がもらえる。1枚目は、選挙区のRobertson の代表を決めるもので、2枚目
は支持する政党とその議員を決めるものである。それを持ってブースへ入り書き込んで
小さく折り畳み、それぞれの投票箱へ入れる。
 眼の見えないばあちゃんの為に、支持政党を訊いて筆者が書き込む、じいちゃんも
同じようにして済ませるのが常であった。

 その後、数日して市役所の前の通りにある、選挙委員会事務所とでも訳すのだろうか、
Australian Electoral Commission(AEC)のオフィスを訪ねた。
 そこで係りの方の話しを聴いている時、強く感じたことは疑う余地の無い「国民の義務」
だった。税金を払わなくてもよい人が居ても、選挙の投票に行かない人はいない。
 死ぬまでその義務を負うのだと強調されていた。足が無くて歩けなくても眼が悪く見え
なくても、病床についていても、選挙は免れない。
 その為に、郵送もあるし、期日前投票も可能だし、今(2016年)では、インターネットで
の投票も出来るのだから、方法はあるのだから、投票は死ぬまで国民の義務として行う、
というものであった。
 海外に住んでいる人は、その旨を報告してあるからよいが、旅行に出かける人は、
行く前に必ず期日前投票をして出かけること、というものだった。旅行もオーストラリア
国内なら、出先で投票できるという。
 そのすぐ後で、筆者はじいちゃんとばあちゃんの為に、郵送での事前の投票の出来る
よう、登録したのである。そのお蔭で今回の選挙もばあちゃんに政党を訊きサインだけ
してもらって、郵送で2週間前に送っておいた。

 以前日本で、投票率30数マーセントというのがあったが、これは関心の無さも異常で
あるが、100パーセントの投票率となると、これも又異常のような気がする。何故かは
政治に全く興味の無い人も居る筈だからと思うから。

 日本も参議院選挙が、次の日曜日に迫っているから、忙しい日々だろうと思う。
 此処では日本のような選挙運動も無ければ、街頭演説も無いから静かなものである。
あるのは現在の議員から、郵送で封書が届く程度のことであるから、選挙運動中の
喧騒は無い。
 郵送分の遅れなどもあり、未だ結果は判明していないようだ。与党と最大野党が拮抗
しているもようで、週末あるいは来週になるかも知れないという、新聞記事を読んだ。

 今回の「独り言」は、5日前に行われた、オーストラリアの下院議員選挙について
呟いてみた。





第16回 2016年6月25日 
人生について
 (亡くなった後の墓などについても)

 気がつくと既に前回から丁度ひと月が過ぎてしまった。年々速くなる月日を恨めしく
思いながらも、人の一生を考えている。
 人は生れた瞬間から死に向かってひた走ることになる。生まれた赤ちゃんを見る親の
希望、喜び、成長の課程での親の幸せ、子の幸せと子供ら自身の頑張りと苦労、楽しみ
や喜び、みんな人生の中の生きる姿であるだろう。
 友人が自身の息子を見て、「いいなぁ若いって、羨ましい」と呟いていた。親も輝いて
いる息子に嫉妬するほど、若さの輝きがある。若いだけで素敵なんだと思う。
 筆者も全く同じ考えである。いいなぁ若さって、と思うのである。しかしながら筆者の
年齢になると先が見えてくる。
 そこで焦ってはいけない、落ち着いて先を読む。今何が出来るか何をしなければ
ならないか、と。真剣に考え、家族で話し合うことが重要である。

 此処で近年、我が家で発生した事柄を述べてみたい。十数年前になるだろうか、
お墓を買いたいから市役所へ連れて行ってくれと頼まれた。老人二人を連れて
市役所へ行き、何処の墓地かを先ず決めた。家から車で10分くらいの場所の
墓地を選んだ。
 何故かは、其処にじいちゃんの兄ウィリアムの妻の墓があるし、いずれこの
ビル(ウィリアム)伯父さんも、その隣に来るのだからと、其処に決めた。
 ビル伯父さんは、その頃の十数年前は、未だ健在であった。

 1941年に、ビルが第二次世界大戦へ参戦する為に海軍基地へ向かう国道で、軍の
運転手が事故を起こし、ビルの妻が亡くなったという。オーストラリア海軍の将校だった
ビルが、海軍基地のニューキャッスル港へ向かう時だったから、今から75年前のことで
ある。
 ビルと赤ちゃんの息子は、軽い怪我ですんだが、その妻の墓があるから、ビルも
いずれその隣の墓に眠るという事だった。
 結局ビル伯父さんは、今から8年前に亡くなって、長い間待たせた妻の横に眠った。
 今のところオーストラリアのこの辺りは、火葬は未だ少なくて、土葬の希望が多く、
ビル伯父さんも、二年前に亡くなったじいちゃんも土葬だった。
 この墓所は古くからあり広大で、市街地から近いこともあり、今も山の麓へ向かって
増え続けているようだ。市の職員が中型の草刈り機に乗ってきれいに草を刈っている
から、何時でも整備されて広々ときれいである。何千墓あるのだろうと眺めることがある。

 オーストラリアの殆どの墓地は、市役所の管理である。ビルは妻と横に並んでいるが、
じいちゃんたちが買ったのは、先に逝った人が下で、後から逝く人がその上に棺をという
形のを買った。
 夫婦の場合は、この形式のが普通だと薦められた記憶がある。 従ってじいちゃんの
棺の上へ、ばあちゃんの棺を下ろして埋葬する形になる。でもばあちゃんは未だ元気で
ルンルンだから、あと五年で百歳、頑張って欲しいと願っている。
 一つの墓は、凡そ縦3メートル、幅1メートル50センチほどで、頭の部分に石の碑が
きれいに横並びになる。名前と生まれた年と亡くなった年が記され、短いコメントが
家族の言葉として刻まれている。
 じいちゃんが逝って二年近くが経つが、ばあちゃんは一度も墓に参っていない。
行きたくないと言う。
 我々は二度行ったし、来月の命日にも花を持って行くが、ばあちゃんは行かないと
決めているようだ。これが日本と大きく違うところかも知れない。墓参りをしない、
墓参りは無いのだ。もちろん例外はあるし、墓参りをする家族もある。
 じいちゃんもばあちゃんも、自分たちの親の墓が何処にあるか知らない。当然の
ことながら墓参りは一度もしたことが無いという。

 移住した頃は、このような死者を弔わないオーストラリアの人々に違和感を覚えた
ものだが、今では解かるような気がしてきている。
 もともと狩猟民族のオーストラリア人たち、今では狩りをする訳ではないが、生まれた
家で生涯を過ごし、年老いて死ぬ人は誰もいない。皆大人になると家を出て行く。
 両親は二人だけになると、大きな家を売って小さい家に引っ越す。そんな風に何度も
家を買い売って移動してゆくのが普通だから、日本のような故郷は無いのだ。
 自分の生まれた家はトウの昔、見知らぬ他人の家になっているから、故郷や郷愁と
いうものは余り無いようだ。
 オーストラリアは先住民を除いては、全住民が移民であり、その子孫である。筆者も
その移民の一人である。この国で死ぬことになるが、遺書など書類での準備はほぼ
完了している。
 人が生まれて、生きてそして死ぬ。木や花も動物も同じであるが、その長さはそれぞれ
違って、花の一年草もあれば、千年を超える木々もある。その木々でさえ何時かは倒れる。
変わらないモノなど何も無くこの宇宙さえも動いてゆくのであるから、人間の一生は瞬時
であると思えば、一日一日を精一杯生きなければ勿体ないと思えてくる。

 移住して間もなく30年になる。考え方や価値観も変わり生き方までもが変わって来て、
今では筆者も間違いなくエイリアン。根も無いふあふあのオマケの人生になっている。
これで良いのだとはっきりと思えるから、先を見つめて出来る事をコツコツとしながら
生きてゆこうと思う。死について墓について、オマケの人生などと書いたが決して悲観
しているのでは無く、事実として客観的に記しているだけなので、ご懸念の無きよう。
 
 上記で述べたビル伯父さんの息子は、赤ちゃんの時の交通事故で生き延びたが、
ベトナム戦争の時、兵士になって行きベトナムで亡くなった。
 ビル伯父さんの生涯は、家族の多いオーストラリア人の中では、孤独な89年の
生涯であった。一人息子を失ってからは特に厳しい人生であったが、晩年は何時も
この家に来て、じいちゃんとビールを飲んで陽気にはしゃいでいた。
 帰りは何時も酔っぱらった伯父さんを、筆者が家まで送って行った。ハンサムな
息子の写真を何時も持っていて、自慢しながら語るビル伯父さんは、幸せそうな笑顔
であった。儚い話だったのに、伯父さんの笑顔が嬉しかった。




 

第15回 2016年5月25日 
医療の違いと仕組みについて
 (帰宅後に、気が緩み風邪をひいてしまった)


 初めてのシドニーから羽田へという往復 All Nippon Airway で快適な空の旅であった。
4月も中旬を過ぎていた為か、機内は案外空いていた。もしも㋂末から㋃にかけてだった
ら、たいへん混んでいただろう。席がとれなかったことでも理解できる。羽田は今とても
人気がある。
 が、、、もう羽田は使わない。

 国際線の荷物を受け取り、国内線へのバスに乗ること20分余り、その後30分ほど荷物
を引きながら歩いて松山行きゲートへ、これなら成田からJALで飛んだ方が楽だと分かった。
次回は他の方法で松山へ飛びたい。
 松山は司馬先生の影響もあって、秋山兄弟の坂の上の雲や、街道をゆくが好きだ。また
正岡子規の句が浮かぶ。春や昔、十五万国の城下かな、だったかしら?
 全くその雰囲気の通りの街であった。穏やかで豊かで自由でぼんやりとして、掴みどころ
の無さ、それでいて温かい。
 素敵な人たちに巡り合った旅でもあった。穣といち子が天から見ていてくれたとしか思え
ない幸運であった。ありがとうございました。

 今回の日本での体調はかなり良くて、訪問した先でご迷惑をかけずに済んだことは、
我ながらアッパレと自画自賛である。
 5月11日の正午前に我が家について、丁度10日後の21日(土曜日)から喉が痛くなり、
口の中は真っ赤。シマッタ風邪をひいてしまったと後悔するも既に遅い。
 日本であれほど気をつけていたのに、帰って来た途端に気が緩んだものと思われる。

 明日の26日(木)に、主治医へのアポが来日前から入れてあるので、木曜日まで我慢
して待とうかと思ったが、余りに酷い咳と頭痛で、メディカルセンターの主治医のオフィス
に電話を入れると、12時のが1つ空いているからいらっしゃいと言う。そんな訳で昨日
行って来た。

 日本と大きく違う仕組みになっている医療について、今日は書きたいと思う。風邪
をひいたことで、ああ日本とかなり違うなと思った次第であるが、頭が未だ痛くぼんやり
としているので、上手く伝わるかどうかは分からないが。

 筆者が主治医と呼んでいるのは、地元にあるメディカルセンター(診療所)に常駐
する医師GP(General Practitioner)である。
 この先生方は、ほぼ全ての病気の診断と治療が出来るが、専門医(Specialist)の
判断が必要となる場合や、大きな手術が必要な場合などと、GP自身が自分の領域
を超えると判断した場合は、直ぐに専門医(眼科、耳鼻咽喉科、胃腸科などなど)に
行くよう指示して、紹介状を持たせてくれる。
 主治医の紹介状が無ければ、専門医を訪ねる事は出来ない。病院も救急搬送の
患者だけ、又は専門医からの紹介状のある患者だけが行くことが出来る。
 大抵の場合、病院から何月何日の何時という、手紙、又はメールが来るから、その
時間に合わせて病院内の??科まで赴く訳である。

 こうしてみると、主治医、専門医、病院という繋がりになるかと思う。日本でよく見る
朝から病院へ行って座って待つというのは無いのだ。
 主治医を替える患者はほとんど居ない、筆者も移住した当時から同じ先生である。
病気の全ての記録を持っているため判断や診断も早いから、多くの場合手遅れが
無い。筆者の主治医の先生は、今は週2日しか働いていない。お互い年をとったもの
だと言いあうのだ。
 筆者の町のメディカルセンターには、4人の男性医師と、1人の女性医師の5人が
居るが、全ての患者がずうっと同じ先生の患者になる。
 医師と患者は信頼関係が必要であり、その信頼関係が構築できれば問題は少なく
なると思う。
 よほど、主治医の先生とウマが合わないという場合は、同じメディカルセンター内で、
替わることもあるが、他所のメディカルセンターに移動するのが普通である。

 例えば違いを分かりやすく書くために、筆者の場合を一つ。
帰国して5日後の16日、ゴスフォード病院でMRIを撮った。それは日本へ行く前に既に
筆者の専門医からの手配がなされていて、帰国後に病院から届いていた手紙を読むと、
実に細かく書かれている。
 例えば、着る物は下着から順に丁寧に記されており、金属のファスナーがあるものは
ダメ、指輪やイヤリングなども身につけない、化粧はしては成らないなどである。
 費やす時間も書かれてあり、その通りに実行された。
 1時間弱で終って10分ほど待つと、脳の中の全てを撮ったCDを受け取って帰宅した。
専門医の先生には、6月14日の午前8時に予約が入っているから、その時間にこの
CDを持って行って来るが、脳の中に写っている影は一体何だろうと思う。
 今は風邪で頭が痛いが、それ以外では頭は全然痛くないし、ただ物忘れが酷く
なっていることは事実だ。それも異常と思えるほどに物忘れが酷い。

 もう一つ、筆者の場合。
3月に右手の甲に出来た皮膚癌を、主治医の先生が切り取って縫ってくれた。この程度の
手術は頻繁にしているようで慣れている。もちろん良性との結果であった、10日後に抜糸
をして、今では痕も見えない。

 もう1つ、現在94才のばあちゃんの話。
16年ほど前になるが、ばあちゃんの脛(弁慶の泣き所)に癌を見つけた筆者は、ばあちゃん
に先生の所へ行こうと言ったが、同意を得られなかった。
 1ヵ月ほど日本へ行き帰って来て、ばあちゃんの脚をみると大きくなって色も変わっていた。
 大慌てで主治医の先生にアポを入れて、直ぐに連れて行った。案の定、皮膚癌の悪性の
メラノーマだった。2日後に病院で手術をした。明くる日の朝、病院から電話があり、迎えに
来いというので行ったが、大手術でも1晩で追い出されるのだ。
 1ヵ月前に先生に診てもらっていたら、傷も小さかった筈である。ばあちゃんの百万ドルの
脚線美の脚は、右足の癌をとった痕が野球ボールほどの大きさになって、白い骨が見えて
いた。数年後にはテニスボールくらいにはなるだろうと。
 左脚の腿の皮膚を20センチ四方ほど剥がして移植した痕が、ジュクジュクとしてなかなか
治らなかった。筆者は3日に1度の割で、紅く血に染まったガーゼを外して、新しいガーゼに
替えていた。1週間後に看護婦さんが来てくれて、経過を診てくれた。
 ばあちゃんは2週間後に抜糸して、癌をとったところの傷は、割に早くに野球ボールから
テニスボールに縮小した、2年はかからなかったと思う。
 ところが、左脚の皮膚は3ヵ月ほども、皮膚が乾かずジュクジュクと長くかかってしまった。
以後ばあちゃんはスカートを止めて、ズボンを履くようになった。
 173センチすらりとした老人だったが、今は流石に眼が見えなくなり、歩くのも儘ならない
ことになっているが、頭はシャープで筆者が何時でも教えてもらう事は、変わりなく続いて
いる。

 日本でなら、こんな医療ごとを家でさせることなど無いだろう。何故かなと考えた時、頭に
浮かんだのが 「自分のことは自分でする」 という文化?かなと思った。
 器用な人などは、家も自分で建てる。日本のように地震が無いから出来るのだろうが、
ほんとうに驚いたものだ。
 移住した当時に、ガソリンスタンドでの給油も自分でする、洗車は当然のこと、30年前
の日本で想像できただろうか?
 その影響で、今に至っても雨が降ると、車をドライブウェイに出すのが癖になっている。
雨が洗ってくれてきれいになり、おまけに市役所から厳しい水制限にもかなう訳である。

 医者に診てもらうことへの、日本との違いを書いてみた。

 

 

 

2016年

第14回 2016年4月7日 
何故か広くなる?

 最近のこと、体力の無さに唖然となることがある。簡単にできていた事が容易に
できないのだ。そして当然のこと、独り言を呟いている「嘘でしょう」と。

 そういう事が重なると、筆者はばあちゃんの所へ行く。94才の彼女と話して来る
と元気を取り戻す。信じられない94なのだ。
 今年の誕生日で95才、節目の時だから100才を誓ってもらうことにしている。彼女
の頭はとてもシャープで、昔の事はもちろん、現在の必要事項をチェックしてくれる。
 眼も見えなくなっている。15年ほど前から徐々に見えなくなり始めて、今はほとんど
見えないが苦情は言わない。
 ところが昨日は、補聴器の調子が悪くて上手く会話が繋がらなかった。早速ナース
・ステイションへ行き話して来たから、次は大丈夫だろうと思う。

 さて今日の話題は「何故か広くなる?」こんな風に感じた事は無いだろうか?
 筆者の家は古い家で凡そ築100年にはなるだろう。数年前まで雨が降ると、雨漏りの
する場所へ、バケツをあちこち置いて歩いたものだ。オフィスの机の上や、コンピュータ
にはシートをかけて防御した。
 余り雨が降らないで、山火事が発生する雨無し気候が続いたから、バケツで耐えられ
たが、5年前に全ての屋根をトタン屋根にしてもらった。カラボーンというそうだ。
 何とその後は、雨、雨、また雨ということが続いた、今朝もまた雨である。
昨日はカンカン照りの夏日の暑さだったのに。
 特に去年は大雨が続き、我が町は4日間も停電になったり、隣のストリートは10日間も
停電になったほどだ。屋根を直していたから助かったが、あの古いままの屋根だったら、
大変な事になっていただろう、想像するだけでも震えそう。

 5年前の、屋根屋さんのお二人(ジムとジョージ)が来ている時に、ポチが我が家の子に
なったから、よく覚えている。
 来た当時のポチは野生児で、何でも壊し庭の花や木は薙ぎ倒して破壊してゆく、乱暴者
の女の子だった。
 ある日には、屋根屋さんのジムさんのランチのサンドイッチを見つけて食べてしまった。
お二人は屋根の上。お昼になりジムの、「あれぇ~」という声、サンドイッチの残骸が其処
にあった。
 謝りながら大慌てで、ハムチーズトマトサンドイッチを作って渡すと、「ポチ、頼むから又
私のを食べてくれ、このトマト入りが美味しい」などと冗談を言っていた。
 ジムはイギリス人、ジョージはスコットランド人、ジムの妹がジョージの奥さんだ。とても
陽気で仲が良く、気持ちのよい屋根屋さんのお二人、今でも時々近くに来たからと言って
寄って下さる、良いご縁となった。
 新しい屋根の必要な方は、ご連絡をください、ご紹介します。あんなに楽しそうに、重労働
をする人たちを知らない。口笛を吹きながら、笑いあって冗談が飛び交う、しかも危ない
屋根の上で。
 
 そんな古い家でも、時には掃除をしなければならない。普段は気がつかないが掃除を
始めると、家が妙に広くなる。数回の休憩を入れても、明くる日に延ばすこともしばしば
出て来た。大して広くも無い家がである。
 これが、年齢を重ねるということだとは解かっているのだが、妙に広く見えるから不思議だ。
昔は一気に出来たのに。
 その錯覚を我がオジサンに話すと、僕は庭の草刈りを1日はフェンスの中側、2日目は
フェンスの外側、次の日に道路との境の草を刈るのだと言う。
 途中で雨が続くと、また最初から遣り直し、小さな庭が妙に広くなる、とオジサンも同じ事
を言った。

 皆さまも、家の中が妙に広く見えて来たら、要注意です。


 




第13回 2016年3月16日 
ほのぼのとよい話し
(ステキなオーストラリア人) 

 先週の火曜日にボランティアをした。頼まれると時々するのだが、今回は日本人の
85歳の女性を、銀行とセンターリンクへお連れした。
 センターリンクは、連邦政府の機関である。日本でのハローワークと年金機構が
一緒になったような役所である。
 2時間半ほどで終り、彼女が住んで居るホームへ送ってゆく途中で車のエンジンが
突然止まった。しかも坂を下っている時であったから、ハンドルも効かないブレーキも
効かない。
 左手で力いっぱいハンドブレーキを引き、角の電柱にぶつかる寸前で車は止まった。
やれやれ。
 隣の席で何事が起きたのかといぶかる女性に、「すみません、車の故障です」と謝って、
直ぐに外に出て携帯でNRMA(日本のJAFと同じ)にかけて、トートラックを呼んだが、
SMSで60分かかるとの返事が来る。
 
 片側2車線の市内の幹線道路(ヘンリーパリ―ドライブ)で、しかも下校時で混み始めた
夕方だ。左側車線を塞いでいる為、過ぎてゆく車から怒鳴られてしまい、背中を向けて
知らんぷりもできず、車線移動のオバサンらしく両手でバッテンをして、中側の車線へと
一応頑張っていた。
 そうしているうちに、素敵な女性が傍に来て、信号待ちで立って居る男性にも声をかけ、
車を押してくれて左側の、ウィリアムストリートへ移動させることが出来た。
又してもやれやれ。
 その女性の名前は、ニコールさん。お互い紹介し合い言葉を交わしていて、待っている
間に、二人でわっはわっはと笑いながら話していた。

 カンカン照りの夏日だ。日本人の女性の為にドアを目いっぱい開けて涼をとれるように
して。突然彼女が怒っていることに気付き、何を怒っているのかと聞いてみると、
「事故を起こして、暑い中止まってしまっているのに、ゲラゲラと笑っている、そんな馬鹿
なことがあるか」と怒っているのだった。少しギョッとなった。
 笑うしかない状態であるのだから。

 そしたらニコールさんが、「私が彼女をホームまで送って行ってあげましょう」と言って
彼女の車で、バイバイと帰って行った。
 ああ、良かった良い人に助けられたと思った。怒鳴りつけて通ってゆくオーストラリア人
の中で、何と素敵に親切な人だと、胸が熱くなる思いがした。
 電話をしてから、丁度60分でトートラックが来てくれ、トラックに筆者の車を引き揚げる
作業を眺めていると、ニコールさんがホームから戻って、再び声をかけてくれた。
「どうもありがとう、彼女喜んだでしょう、ホームの夕食に間に合って。夕食の時間に間に
合わないのではないかと、とても心配してたから、ほんとうに良かったわ、ありがとう。
でもどうしたの?、こちらに用事があったの?」
「Mina貴女を送ってあげようと思って戻って来たのよ」
「えぇ、、、」
嬉しくて涙が出るというのは、こんな時なのではないかと、今度こそ本当に胸が熱くなって
困った。

 そして筆者もニコールさんの親切に甘え、筆者のネズミ色のコモドーがトラックに載せら
れて去って行くのを見送り、ニコールさんのシルバーメタリックの、メルセデスベンツで家ま
で送って頂いたのだ。

 その後、車は2日がかりで点検された結果、ガソリンタンクの中のポンプの劣化が原因と
判り、新品に替えてもらい戻って来た。
 修理場のブラッドさんの大奮闘の結果だが、彼は未だ若いが車を修理する技術は中々の
ものだと、以前のオーナーの推薦があったと聞くし、信頼のできる人柄だ。
 
 上記の写真が、タンクの中のポンプだ。ブラッドさんが持ち上げてくれたのを撮ったものである。
 横のワンちゃんは、ブラッドさんのお仕事を毎日見守ることが、彼の役目なのだと。なかなか
 可愛い顔をしている。自然にハローと声をかけてしまうのだ。

 

 

 


第11回 2016年1月30日 
トンネルと橋

 日本へ帰国する度に感動で涙さえ出る事がある。それは高速道路などのトンネル
を走る時だ。
 2014年に友人の車に便乗して会津へ行った。立派な鶴ヶ城も感動いっぱいで見学し、
五色沼の美しさにも天気の良さも加わり素晴らしかった。心から堪能した。
 日本の友人の車に乗り彼の運転で、オーストラリア人の友人二人と筆者の4名で
あった。筆者は新幹線で東京から越後湯沢まで行き3人に合流した。新幹線でも多くの
トンネルを通過して、だが新幹線のスピードが速すぎてトンネルの中は見えない。
 
 ところが友人が運転する車で、トンネルに入ってゆく。瞬間に筆者の腕には鳥肌が
立ち、心臓はパクパクと音を立てるように脈打つ。感動で涙までこぼれてしまった。
 お城も五色沼も素晴らしかったが、トンネルに比べると感動はその比では無かった。
長いトンネルも入って出るまで鳥肌が立ち、身体が震えるほどの感動で、言葉は
全く出なかった。
 解って頂けるだろうか、美しく輝くトンネル内部の技術の結晶を感じて鳥肌たつ
筆者の感動を。
 素晴らしいなぁ、日本の技術は。声は全く出なかったが涙がこぼれて困った。

 数年前には、国際免許証を持って行き、レンタカーで走ってみた。この時は
数回道を間違えたが、トンネルはやはり素晴らしく一人で叫び続けた。誰も居ない
から遠慮なく叫んでいた。
 しかしながら、車に付いているナビゲーションが良く解からなかったので、次を
左に曲がると言ってるが左に曲がる道が無いのだ。そのうち通り過ぎてしまったりと。
 筆者が此処で運転している国産車は、コモドーという車で14年目のボロ車である
から、日本車のように気配りも無い、ただ大きいだけの3800CC、ガソリンをばらまいて
走っているだけの無能の車である。ラジオは付いている。
 性能の良い小さな日本車に替えたいと思っているが、思うだけで未だ実行していない、
そのうちにと願ってはいるが。

 30年ほど前、この国に移住した当時、毎回高速道路を走って仕事に行ってた。
この町からシドニー市内までは1時間15分から1時間30分ほどの距離である。
その間1つのトンネルも無い。砂岩の山を掘り抜きで高速道路を造っている。
道路は山なりの上がったり下がったりなのだ。
 従って高速道路だというのに、ジェットコースター並みの高低のある場所がある。
雪が降らないからこれで良いのだろうが、最初の頃は、正に驚きの連続であった。
 当時の高速道路の料金は、僅かに60セントだった。そのうちに料金所が撤廃
されて、その60セントも要らなくなった。元が取れたからもう要らないと聞いたが
本当だろうかと、その当時も疑問を持ったものだが、事実は知らない。

 途中から高速は終わり、一般道を走りながらシドニー市内へ入る前に、かの有名
なハーバーブリッジがある。当時は1ドル、直ぐに2ドルに上ったが、コインを投げ
入れて通っていた。その後3ドルになって、現在は幾らかは知らないが、今は日本
と同じように自動になった。
 シドニーハーバーブリッジは、確かに美しいし当時の技術を駆使した画期的な
建築であった。1923(大正12)年に着工し、昭和7年に完成した橋である。
開通して84年になる。
 8車線の車道と、電車の複線が通り、反対のオペラハウス側には広い歩道が
付いている。たぶん世界一幅の広い橋ではないかと思う。
 未だ車がそれほど多くない時代に、既に車社会を想定した橋を架けたのだから
流石と思う。
 しかしながら、オペラハウスを除くと、その後の技術の発展が遅れてしまったようだ。
またその必要も無かったのかも知れない。
 広い大地に少ない人口、筆者の移住当時は1700万人に満たなかったのだから、
技術を駆使して発展する必要など無かったのだろうと想像している。
 30年経っても我が町から60キロのシドニーまで、電車でも1時間半もの時間が
かかること、1分たりとも30年前と比べても速くはなっていないのだ。
 筆者は何故か、この発展しない国に魅力を感じている。何時までもこのままで
と、願っているのである。
 電車は1時間に2本。1本は急行で、1本は各駅停車の電車である。その電車は
頻繁に遅れて来る、5分や10分の遅れは誰も気にしているようには見えない。
 人口凡そ30万人の地域である。 朝の出勤時間の6時台と7時台だけは、もう少し
電車の本数はもちろんあるけれど。

 だから日本へ帰国する度に、発展し続ける東京駅、新幹線にトンネル、瀬戸内海
に架かる橋などを見て涙が出ることは止めようがない。日本に住んで居れば当然
なのかも知れないが、海外から見れば当然ではなくて、日本はスゴイ国なのである。
 日本にお住みの皆さまも、次にトンネルを通る機会があれば、是非、味わって欲しい
日本の技術と丁寧なモノ作りの国であること、日本人の誇りとして。
 何時も感動をありがとう!

 最後に一言、20数年前に、ハーバーブリッジの下の海底に、日本の会社がトンネル
を掘り、片側2車線の海底トンネルを通して、交通量の多くなったハーバーブリッジを
助けて、この海底トンネルが大活躍をしていることを報告したい。




第10回 2016年1月13日 
新年明けましておめでとうございます
  Happy New Year!

 年々、体力が落ちてゆく中でも机の前に座ると、気力だけは何とか未だ維持して
いることにホッとなる。
 今、我が親愛なるばあちゃんと話して来たところだが、彼女は去年94才になったが、
ルンルンの年明けとなっている。息子からのクリスマスプレゼントのCD を聴き喜んで
いたが、1月10日に亡くなったディビット・ボーイの死を悼んで、若いのに可哀想にと
言って嘆いている。

 だから筆者も頑張らねばと思った次第である。主治医の先生が2週間毎に尋ねて
ばあちゃんと話すと、物忘れが酷くなってきたと言うばあちゃんに、先生は、それ以上
覚えていられては、医者の私が落ち込むから少し忘れてくれと言われ、筆者も大きく
頷いてしまった。元気なばあちゃんに励まされる日々である。

 今年も宜しくお願い致します。

元気で参りましょう!



二〇一五年

独り言

第 9 回 2015年12月29日 
小説 「穣の一粒」完成

 2015年も残り2日となり、あっという間に過ぎてしまった1年だった。年々速さを増してゆく
1年であるが、今年は特別に速く感じた。
 4日前のクリスマスは、筆者には特別の日となった。カトリック信者でも無く、クリスチャン
でも無いから特別に教会へ出かけることも無いけれど、そんな筆者がキリストさまにも、
神さまにも仏さまにも、心から祈りたい、感謝したいと思った今年の12月25日であった。
 昨年から取材のため日本、松山へ、メルボルンへ、スワンヒルへそしてベンディゴへと
飛び回った後、机に向かったのが3月末、夏の終わる頃だった。

 遂に「穣の一粒」が完成したのだ。何といっても記念すべき穣の誕生から、今年は150周年。
しかも穣の生まれ育った松山市の、伝統ある新聞社の愛媛新聞社から出版して頂いた。

 愛媛新聞は明治9年に発刊された、日本の中でも伝統ある新聞社である。読売新聞は2年
前の明治7年、朝日新聞は愛媛新聞より遅く、明治12年の発刊が最初であることを考えると、
愛媛新聞が如何に早くから社会貢献をしてきたことが分かる。
 来年2016年は、140周年を迎えるというのだから、穣の誕生から11年後である。混乱の
明治維新から、僅かに9年後であった。

 筆者が参考にした当時の明治20年代から30年代は、海南新聞と会社名を替えた時期で
あったが、記事が実に面白くて、詩的でさえあり当時の記者の文章力の巧みさに、驚き
すっかり昂奮してしまった。
 もちろん読めない漢字も多くあり、漢和辞典と格闘の日々でもあったが、明治という時代
の躍動感が読んでいるうちに、身体に伝わってくるようなエネルギーを感じながら、スゴイ
時代だったんだなぁと震える思いだった。
 特に政治家が皆、国家という唯一無二の日本国だけを考え、世界の中でどうすれば
良いかを考え続けた時代だったようだ。誰一人として私欲で国会に臨んだ者は居なかっ
たのだろう。
 日本という国の歴史、大して知っている訳では無いが、戦国時代もあったが、千年も前
に女性が文壇で活躍した時代もあり、と読めば読むほど面白い歴史だ。
日本人として生まれて良かった。
 
 きっと穣といち子も、同じように感じて生きた生涯ではなかったのかと想像している。
スワンヒルにお住みのお孫さんのマレーさんが、おばあさまのいち子がよく、お手玉や
手まりをついて見せてくれたと言う。お手玉などはまるで、マジックみたいに上手だったと
嬉しそうに話してくださったから、良い思い出なのだろう。
 白豪主義のオーストラリアで、日本人は隠れて生きていなければならなかった時代に、
着物を着てお手玉をして孫たちに見せるいち子の姿は、想像するだけで涙がこぼれそう
で困った。
 穣亡き後も毅然として生きぬいたいち子の生涯だった。

 今、こうして「穣の一粒」が完成して、多くの方々にお世話になったこと、改めて感謝の
気持ちでいっぱいだ。
 特に編集者の阿久津さんとの仕事は楽しかった、学ぶ事も多くて、それでも筆者の文章
を大切にしてくださった。
 プロでありながら優しい人で、ありがとうの他に言葉が浮かばない。

 ありがとうございました。





第 8 回 2015年12月8日 
 移住の形

 国内でも海外でも移住が、以前に比べて楽になり、益々増えているのではないだろうか。
ヨーロッパでも此処オーストラリアでも移住、移民となって移ってくる人々も多い。
 もちろん筆者もその移住者の一人であるが、今現在はヨーロッパでは難民が多くドイツを
目指して、シリアから大移動をしているニュースを読んでいる。
 シリアからだけではなく、アフリカからは地中海を渡ってイタリアなどへ、難民が移動して
いるとのニュースだ。
 移住の中でも、難民はやはり心が痛む。難民とは其処に戻る事が出来ない人々、主には
戦争や内戦で住む場所を失った人々であるから、帰宅も帰郷も永久に無いのだ。

 さてオーストラリアと日本の移住の関係は、興味深い歴史とも言える。明治時代初期から
木曜島へ、そしてブルームなどのインド洋側の町へと、多くの真珠貝を採集するダイバー
(潜水夫)たちが、出稼ぎの形で移住して来た。
 反対に、オーストラリアから日本への移住は、たいへん限られているようだし、統計を知らない
から数字で表せないが、最近では北海道のニセコが、オーストラリア村と呼ばれていると知った。
オーストラリア人のスキー好きが、たくさん集まってオーストラリア村と呼ばれる町が、出来たの
かも知れない。

 明治時代から続いてきた真珠貝を獲ってきた日本人は、今では一人も居ない。真珠貝で作ら
れていたボタンなどが、プラスチックの開発で存在感を無くしてしまったから。
 加えて、真珠養殖が盛んに行われるようになったことも、ダイバーの職を奪ったようだ。
 10年ほど前に、インド洋側の西オーストラリア州の真珠の町、ブルームを訪ねた。家を出て
20時間余りもかかった。日本へ行くよりも2倍以上の時間をかけて訪ねた町だった。
 その時にお会いした日本人の元ダイバーの方に、お話しを聞くことが出来た。彼は太平洋戦争
後の昭和30年に移住したと言った。ダイバーとしては、最後の一人だったと言う。
 他には日本人は居ないのですか?と訊くと、
「3人の日本人が居るが、皆老人ホームに入っていて、間もなく死ぬだろうから、あとはわたし
一人になるよ、覚悟はしているが寂しいよ、昔は日本人がたくさん住んで居て活気があった。
明治時代には日本人の病院まであったんだよ、時代は変わった」と言いながら笑って、
「わたしもそのうち、皆の後を追うが、今のところ健康だから90までは行くだろう、長い人生にも
困ったものだが、、、、まぁ強いて言えば面白い人生だったかな」と、皺の多い黒い顔で笑った。
何処かで見た大仏様のようだった。この彼も今はもう居ない。

 昭和時代の移住の形は、もう一つ形の違った移住がある。太平洋戦争後と、朝鮮戦争後に
移住して来た日本人女性たちが居る。この勇気ある女性たちを戦争花嫁と呼ぶが、今では
死語に等しいと思う。
 朝鮮戦争は別としても、昨日まで敵国だった人の妻になって移住してきた女性たち、想像を
絶するご苦労があった事と思う。ほんとうの愛が無ければ移住はできなかっただろう、強い絆
で結ばれた夫婦だったのだと思う。
 70年ほども昔の事であるが、現在ここで生きる筆者たちにとっては、大先輩であり、その勇気
に頭が下がる。今のオーストラリアは多民族国家(筆者の勝手な呼び名であるが)となった明る
く自由な国で皆、思う存分陽気に暮らして居る。

 この1年間、筆者が追いかけた明治時代の大先輩、オーストラリア米のパイオニアとなった
高須賀穣の時代は、この国は白豪主義という国策が国の基本で、白人以外の人々には厳しい
時代であった。
 そんな時代に日本人として毅然として生き、米を成らせパイオニアとなったこの一家の物語
が完成した。
 2015年12月25日、クリスマスの日に出版されることが決まった。キリストさまの誕生を祝う日
に「穣の一粒」が出版される。
 今年は高須賀穣の生誕、150周年でもある。

 去年の12月の寒い雪の松山での取材から始まり、2ヵ月後の2月には40度を超える真夏の
スワンヒルでの取材、そして執筆、修正、と筆者には飛ぶように過ぎて行った、あっという間の
1年でもあった。
 愛媛新聞サービスセンターの阿久津氏の丁寧な指導には、感謝という言葉しか思い浮かば
ない、ありがとうございました。
 また多くの皆さまに助けて頂きました、温かい声援のおかげです。
 皆さまありがとうございました。

 Have a Very Merry Christmas and Happy New Year!

 




第 7 回 2015年9月27日
 犬について(ポチの人生)

 9月1日にポチは7才になった。誕生日には大好きなチキンのご馳走がでたが、もはや中年の7才
だからオモチャは欲しがらないので、ひたすら食べ物で祝った。 
 5年前に2才で我が家に来た時は体重9キロ。裏庭の高さ3フィート弱のテーブルにも脚のバネだけで
飛び乗っていたのに、今は体重も増え、年齢もありで、とてもテーブルの上に飛び乗ることは不可能に
なった。
 ポチの前の我が家の主は、ハンナでゴールデンリトリーバー犬であった。彼女は13才と5ヶ月で逝った。
大型犬にしては長生きの方だと獣医の先生の言。
 ポチはジャックラッセルとパグの雑種で、赤ちゃんの時ペットショップで売られていたのを買った若夫婦が、
子犬の時の絶対必要な躾をしなかった為に、野蛮な犬に成長してしまった。
名前はベラという可愛い名前であった。

 そして言う事を聞かないベラは、RSPCAへ捨てられたのだ。ご存知の方も多いと思うが、
RSPCA(Royal Society for the Prevention of Cruelty to Animals)は捨てられた動物や、虐待を受けて
いる動物を保護する権威ある所、何と言っても王立と謳われている言葉でも解かるだろう。
 ベラは捨てられてしまって半年余りそこで暮らしたようだ。間もなく2才になる前に筆者がRSPCAを
訪ねて、気に入りその場で買い取ることにした。300ドルという安さであった。
 1週間後に検査を済ませて我が家に連れてきた。帰りの車の中で嬉しそうにはしゃいでいた。
 さっそくPochi ポチと名前を変更して、市役所へ行き登録してきた。

 僅かに1日で自分の新しい名前を覚えてしまった。朝晩の散歩も大喜びで飛ぶように歩く、3本脚で
ビッコの格好がまた可愛くて、でも何だか涙が出て困った。
 余程いじめられたのか、もしかして虐待を受けていたのかもしれない。朝は早朝なのでほとんど人に
合わずに散歩していたが、夕方は皆が日本庭園の横の芝生の広場が開放され、犬たちはリードを
外して自由に遊びまわれる。
 ポチは年下の大型犬、ゴールデンリトリーバー犬や、ラブラドール犬など皆6ヶ月から8ヶ月くらいの
若い犬たちのリーダーになったようである。
 小さな体のポチが大型犬を引き連れて庭園の裏の海に入ってゆく。満潮の時はきれいでよいのだが、
干潮になるとマングローブの下は真っ黒になったヘドロみたいな砂地で、海から上がって来る犬たちは
何とみんな真っ黒。
 これには飼い主たちからの怒りと苦情を一心に集めたポチは、夕方のこの集会には出入り禁止と
なってしまった。
 筆者も馬鹿みたいに笑ってばかりも居られない、ポチの訓練が始まった。野生児のようなポチの
訓練は時に諦めたくなるほどの辛抱が要った。
 止まれ、待て、座れ、未だ、行け、と一つづつ教えるが、彼女の得に成ることは直ぐに覚えるが、
嫌な事や不利な事は無視か逆らうかのどちらかであった。
 肩を両手で抱いて目を見て教え込むのに、凡そ2年を要したから尋常ではなかった。

 だが良い事が起きた、3本脚で歩いていたのが、1年もしないうちに4本脚で歩けるようになったのだ。
毎日欠かさず歩いたことが良かったようだ。リハビリになったようで、続けることの大切さを彼女から
学んだのだ。
 今では7才となって、筆者との会話はほとんど理解する。朝ベッドまで起こしに来てくれるが、
早過ぎる時には「まだ早い」と言うと自分のベッドに戻って行く。シマッタ、日本語も教えておけば
良かったと後悔している。
 数か月前に、余りに退屈したのだろう、オフィスで筆者のスマホの充電コードをかじってダメにした
ので、秘書を解雇して謹慎処分でオフィスに入れない罰を与えたが、謹慎は1日で終わってしまった。
 ほんとうは、寂しかったのは彼女より筆者だったようだ。

 この頃のポチは、口の周りも白くなり、顎の黒かった毛はすっかりグレーになり、年齢を感じさせる色
に変わってしまった。オーストラリアではこの新種のジャックラッセルとパグの雑種が人気と聞いたが、
7才でこんなに目に見える形で老いてゆくことに驚いている。
 人も老いるが、一生が短い犬の老いは驚くほど速い、だからできるだけ可愛がって暮らさなければ
せっかく家族になったのに、勿体ないと思うのだ。
 今では大好きなオフィスの回転椅子に乗るのも、時々失敗して落ちて転んでいる。筆者の所へ来て
助けて欲しいと言う。椅子の脚のレベルを一番下まで下げてやったが、これも時間の問題かな、
そのうちソファの低い所だけとなるのかなと思うと寂しい。

 筆者の目論見は、このタイプの犬は寿命が長くて、18年から20年は生きてくれると思ったのだが
間違いであるのか、妙に不安になるこの頃である。
 今朝も散歩の時、途中で雨が降りだした。雨だと言うとポチは間髪を入れず走り出した。頑張って
走って我が家のある丘まで来ると、雨脚は更に強くなって急いで家に走り込んだ。
おかげでびしょ濡れは免れたが、心臓がバクバクと鳴っていた。 ポチは、車庫に走り込んだとたん、
高速回転でブルブルと雨の滴を散らしていた。犬は凄いなぁとこんなことにも感心する筆者である。

 犬好き、動物好きの筆者は、次に生まれてくる時は犬と決めているが、もし虐待されるような
家だったら、困ったなぁと多少の心配と不安があって、未だ先のことだからと問題を先延ばしにして
しまった。この国の政府みたいだと思いながら。

 そんな日々の暮らしの中にも、この国からほぼ真北にある日本を眺めて、友人たちとの話の中で、
安全保障関連法の成立を皆が喜んでいるようだ。日本国内に住んで居る為に、中側の人々には
その形がよく見えないものが、外側から見ているとよく見えるということだろう。

  平成の時代になって今年はもう27年、昭和ももう遠くなり、明治は更に遠い歴史のかなたに、
だがあの頃の記事を読んでいると、身体に躍動感が伝わってくる。
  藩から全員が国民になり市民になって、貧しい中にも国を思い、誰も個人の利益を考えずに
国家を思ったという、今から思えば夢のような時代があったのだ。
 西洋から押し寄せてくる外敵に耐え、ようやく整った国家を支えた全ての明治人に敬意を表したい。

 平成時代、もちろん全員では無いが国会議員が、私欲に満ちていたり、国会で妙な行動に出る議員、
デモもしかり、さまざまに意見があって考え方も違ってよいのだが、国家とは何かをどうあるべきかを、
皆が考える時代が来ているのではないのか、政治など全く解からない筆者でさえ、心配で北を眺める
この頃である。
 海外に住んでその資格は無い、ダマレ、ヤカマシイ!の声。
ゴメン!

 



独り言
第6 回 2015年8月10日

春がすぐそこまで、、、

 8月に入り、改めて月日の過ぎゆく速さに戸惑っていて、それでもカレンダーを見ると納得。
日本はこれから、お盆休暇のため先祖が帰って来るから、仏壇の仏さまたちで賑わうことだろう。
此処は相変わらず寒く、朝の気温は5℃くらいで、気候は未だ冬の真っ只中であるが。
それでも庭には冬の花は満開、春の花が其処此処に咲きはじめて、春が其処まできていることを、
感じることができる。

左の写真から順に、
裏庭のサツキ、裏庭のサツキ、前庭のサツキ、前庭のサツキ、裏庭の椿
裏庭で満開の沈丁花を一輪、バックの青色はTOSHIBAのWindows8の画面
             前庭の枝垂れ山茶花、裏庭の椿、裏庭の椿、前庭の木蓮
2階から見下ろした木蓮、クンシラン? 裏庭のサツキ、裏庭の椿

全部サツキと書いたが、ツツジもあると思うが、こちらでは全て azalea と訳されて
サツキとツツジの違いが無いのであしからず。

これらの花々が一斉に咲き、間もなく日本庭園の傍の桃と花梅が咲き、
いよいよ春本番もまじか、あと3週間で春が来る。

今回は、写真のみにて。

 

 

第5 回 2015年6月23日
(こんな違いが、、、)

 今年のオーストラリアは、と言っても筆者の住むCentral Coast であるが、異常気象が続いている。
雨の多い寒い夏が過ぎて秋を飛び超えて冬となった。おかげで夏の森林火災が無かったことは良か
ったし、水不足も解消されて良い事づくめとなっているのだが、太陽が顔を出してくれない為に、
社会全体が暗い。
 社会全体が暗いなどと、オーバーに考えるのは筆者だけかも知れないが、明るい日の出の中をポチ
と一緒に歩きたいと願っていたら、何と昨日と今日2日続いてお日さまが顔を見せてくれた。
 祈りが通じたと喜ぶ単細胞の筆者、20メートルはありそうな長い朝陽の影を踏みながら歩いた、
ああこれが幸せかと。

 さて今回はこの国と日本の違いを書いてみたい。我が家のポチ、先回トイレットペーパーを咥えて
バスルームから廊下を走り、ラウンジまでと悪戯をしたが、このバスルームを先ず述べたい。
 バスルームのドアは使わない時は開けてある、ドアが閉まっていれば誰かが使っていることが
分かる。バスルームにはお風呂とシャワールームとトイレと洗面化粧台がある。
 ずいぶん前の話しだが、日本から来た学生が何時でも使用後にバスルームのドアを閉めるので、
開けておくようにと言っても日本での癖なのだろう、忘れて閉めてしまう。
 ばあちゃんがトイレを使いたいが、ドアが閉まっている為に使えないので、貴女のバスルームを
使ってよいかと聞きに来るから、声をかけてみると返事が無いから、ああまたかと思い、ばあちゃん
はやれやれと言うことになった事が数回あった。
 勿論トイレだけが独立している場合は、ドアは閉めて大丈夫、ノックすればノックが返ってくる広さ
であるから。
 これなどは日本とは、大きな違いと言えるだろう。

 犬の飼い方も大きく違うようだ。此処に来て最初の犬がゴールデンリトリーバー犬のハンナだった。
彼女は13年と5ヶ月楽しませてくれて逝ったが、生後10週間で我が家の子になった。
 ハンナは血統書付でブリーダーから来た。彼女の両親も国内で優秀犬として表彰された犬であった
からだろうか、子犬の時の悪戯時代が終了すると、貴婦人のような上品さであった。
 法律で犬の生後すぐには親から離してはいけない、少なくても8週間が過ぎなければいけない。
だから大抵は、10週間が目安になっているようだ。その間に背中(首の下辺り)にチップが獣医に
よって注射される、その後飼い主は、名前や住所などを市役所に届け出る。
 飼い方は庭で自由に遊ばせる、鎖や紐で繋いで飼ってはいけない。そんな事をすれば動物虐待
とみなされてRSPCAから警告を受けることになる、度重なれば飼う資格が無いとなり、犬は連れて
行かれることになるから注意しなければならない。
 尤もそういう人たちは犬を飼ったりはしないだろうが。
 子犬が凡そ6ヵ月に達すると、飼い主は10週間の訓練に一緒に参加するのが普通だ。週末に
地区で集合して、飼い主と一緒に訓練を受ける、座れ、止まれ、待て、という具合に教え込んでゆく。
必ず飼い主がリードを持ち、一緒に横を歩くのが基本である。
 ハンナの後に我が家に来たポチ(女の子で9月に7才になる)この子はRSPCAから2才の時に来た
のだが、彼女はハンナの反対に位置する感じの犬であるようだ。
 前の飼い主から訓練は受けた形跡はなく、我が家に来て2年かけて教え込んだが、頭もよく覚えも
良いのだが、野生児が長かった為もあり、とにかく悪戯が止まらない。パグとジャックラッセルの雑種犬
である、昨日は遂に暇を持て余して、筆者の iphone の充電コードを破壊した為、秘書を解雇して
彼女は今謹慎中である。

 次は交差点、此処 Central Coast ではたいていの交差点がラウンドアバウト Round-a-bout と
呼ばれる方式である。信号は無くて交差点の真ん中に丸く造られた所を中心に、右側が優先される。
 車道は日本と同じ左側車線通行で、車は全て右ハンドルである。海外から輸入される車も全て
右ハンドルである。日本では海外から輸入する、例えばドイツ車やイタリヤ車などは、左ハンドルの
まま輸入されるが、オーストラリアは全て右ハンドルとなる。
 このRound-a-boutは慣れれば非常に快適なシステムで、信号のように赤で停止して待つことも無い、
一旦停止すれば右側に車が居なければ何時でも通過することが出来るし、右側のその右側に車が
居る場合(真向い)には、直接の右側が停止する為、問題なく左折も直進もできるのである。
 一瞬の見切りも大切であるから、ぼやぼやしていると気短の人が後ろに居たりすると、クラクションを
鳴らされるから注意が必要ではある。
 移住した当時、我が市には駅前に信号機は2か所だった、今はかなりハイウエイ(幹線道路)にも
信号機は増えては来ているが、住宅街には未だほとんど信号機は見かけない、Round-a-boutが
未だ充分に貫禄を示している。

 日本でも車の行き来の少ない道路には、このRound-a-boutのシステムを用いれば、停電になっても
心配の必要が無いのは在り難いと思うが、如何であろうか?
 加えて大いに節電になることは間違いない。

 次は時間に関する気分の違いだ。割に時間にルーズである、先々週シドニーまで出かけた。帰りに
急行に乗った、少し遅れても1時間半で我が町の駅に到着する、僅かに60キロの距離だ。
 ところがこの急行が、中央駅を出て直ぐに停まってしまった、ようやく動き出してホッとしたのも
束の間、次の駅に停車したまま動かず、2時間余りかかって我が駅に到着したが、結局原因の
アナウンスは無かった。
 日本の新幹線ならば、東京から名古屋を過ぎている距離を、同じ時間で帰って来たのだ。この
電車のサービスは、30年ほど前に移住した当時からほとんど発展していない。
 因みに、我が町への電車は朝の6時台と7時台を除いては、1時間に2本、1本は急行、もう1本は
各駅停車、これほどのんびりした国で暮らしながらも、気分はもう少し頑張って欲しいと望むのは、
筆者だけではあるまい。
 我が相方の話しでは、高校の男子校を卒業した際に、出来の悪い順から皆、州政府の鉄道会社
に入社したと言う。ほんとうかどうかは確かめてはいないが、鉄道で働く同級生の知人を見ていると
頷ける、ゼンゼ~ン頑張らないもの、、、ゴメン。


 

 

第4 回 2015年6月6日
(自然災害に備えるには)

 日本のように活火山も無く、地震も無いこの国オーストラリア、太平洋で発生する台風が勢力を
強めながら日本へ向かうという形の台風も無い。ところが今年は少し違った。
 今年の夏は、暑い日が数えるほどしかなくて寒い夏だった、毎日のように降る雨も、最初の頃は
嬉しかったものだが、止まない雨にだんだんと気分は後退し、もうそろそろ止んでもよいのだがと
願うようになった。
 

 極めつけは先々月のストームだ、4月21日の朝から停電が丸4日間続き、夕方5時過ぎには暗く
なるから、ロウソクの灯りでは本も読めず、朝の6時まで12時間寝るのは苦痛であるから、起きても
寒いし暗くて何もできず、こんな事は移住以来初めての経験だった。
 Cyclonic-Storm が、我が地域 Central Coastを襲ったのは、数日激しい雨が降ったのちの、地盤
が緩んだところへ、轟々と唸りながら強風が吹きぬけて、あちこちの家の庭の大木が薙ぎ倒されてしまった。

 築百年になるかという我が家は、心配したがよく耐えてくれて被害は無かったものの、近所の知人の
家は二人抱えほどもあるユーカリの木が薙ぎ倒されて、ドライブウェイを塞ぎ、フェンスを越えて隣の
屋敷に倒れてしまった。
 停電も我がストリートは4日間だったが、隣のこのストリートは7日間も電気が来なかったことを思うと、
災害慣れしていない為に対策が間に合わずという風に見えたが、間違っているかも知れない。

 現代の社会において、停電は命取りに近い、料理もできずシャワーも使えず、食べ物を探しに町に
出ると、既にスーパーの棚は空っぽになっていた。暗くなればローソクの灯りでは成す術が無いと
思ってしまう、東日本大震災を直ぐに思い浮かべた。
 あの寒さの中の人々のこと、筆者の友人のオーストラリア人の副校長が漏らした言葉、あんな大災害
にはこの国の人たちは対処できない、パニックになり日本の人たちがとった冷静さは此処では在り得ない、
と言い切った彼女の真剣な顔を今も思い出す。

 それは災害慣れをしていない、この国の自然災害の無さが原因だろうと思う。
自然災害と言えば真夏の森林火災だが、今年の我が地方は雨ばかりの寒い夏だったから、森林火災は
言うに及ばず、市役所からの水不足の為の水制限も発令されなかった。
 時間を見つけて山奥のダムまで行きたいと思っている。この目で、どのくらいダムの水量が上っているかを
確かめたいと、筆者が水量を確かめたからといって、何の価値もないのだが、、、せっかく雨が降っても
ダムの位置が悪い為に役に立たないのだと、以前に地元新聞で読んだことがあるので、流石に今年の
雨では大丈夫だろうと、無性に結果を知りたいと思うからである。
 要するに野次馬の類であるが、水量を確かめたいと思うのは、事実起きている現実と、メディアの
記事が正しいのかと、比べているからである。

 最近の日本では御嶽山の噴火から、箱根山や口永良部島、地震も全国で観測できるほどの8.1Mが
起きている。西ノ島は今も拡大している。
 世界ではネパールの地震、マレーシアの地震は2日前、突然発生する自然災害に、時に人類は成す

術が無いことも多い。

 僅かに4日間の停電にさえ耐え難い苦痛と思うのは、エアコンに慣れて温かい家の中で、食べ物は
冷蔵庫の中にいっぱいあり、と何の疑いも無く暮らしているから、突然に寒い家の中で、食べる物が無い、
マクドナルドへ行くのさえ、信号機の働かない幹線道路を恐る恐る走るという具合であった。
 150年前は太陽とともに起きて働き、夜は暗くなれば出来るだけ早く床に就いたのだろうと想像すると、
現在の我々は皆便利さに慣れてしまって、少し不便だともう耐えられないのだ。
 それではこれから起きるかも知れない自然災害に、どうすれば一番よいのかを考える機会をもらった
と思って、準備することにしよう。

第1は、電気もガスも要らない保存食を準備する。
第2は、長引いた時の為、携帯ガスコンロを買って来る。
第3は、飲料水を確保する。
第4は、マッチまたはライターを買ってくる。
第5は、ローソクは大きめのを多く準備する。

 これ以上は考えつかないが、大切な事を忘れているかも知れないから、もう少し情報を集めたい。

 

 

第3 回 2015年3月18日

 上記の3枚の写真は、昨年2014年12月に松山に行った際に撮った松山城と、道後温泉と、3枚目は
2月18日から6日間ほど訪ねたSwan Hillの高須賀堤防と、その下に立ってくださっているのは、
高須賀穣氏のお孫さんである。
 僕が下に行って立ってあげるから、それを写真に撮りなさい、堤防の高さがよく解るだろうと
おっしゃってくださったので。

 今回の独り言は、最近日本で起きている事件?のインターネットのニュースを読んでの感想を呟いて
みたい、、、が、コンピュータの画面に載っているこれらのニュース情報がほんとうに正しいかどうかは
分からない。確かめた訳でも無ければ、事実より少しはオーバーに表現されているのかも知れないから。

 日本の今の政治家に節操はあるのか、政治家と言う職業をほんとうに理解しているのか、日本国の
国政に係わる人間としての自覚はあるのか?
 例えば、ある女性議員が路上で既婚者の同僚とキスを交わす、それはモラルの上から問題はある
だろうが、まぁ良しとする、が、その後が如何にも悪い、体調が悪いと病院に入院してしまったのだ。
入院させる病院も病院であるが、その病室で吸ってはいけない煙草を吸って、再び謝罪をしている。

 国政を預かる国会議員であり、現在は農林水産政務官というたいへん偉い人のようだし、年齢も
四捨五入すれば還暦になる方である。
 オーストラリアなら必ず病院が入院を拒否するだろう。昨年亡くなった我が家のじいちゃん、
生涯売れない画家だったが病気に対して極端に怖がりの人であった。胸が苦しいと言って救急車を
呼んでくれと頼まれ、何度か救急車に来てもらった。
 そのうちの何度かは、救急車に乗って病院へ行く資格が無いと断られた。救急車の運転手さんは
必ず二人で来て、直ぐに応急の治療を施し、素早く病院へというのが普通だが、じいちゃんの場合は
嘘をついているのでは無いが、救急車で病院へ行くほどの重症では無いということであった。
 挙句の果て、じいちゃんは我が市の救急車のブラックリストに載ってしまったから、電話した時点で
詳しい症状を訊かれることになってしまった、そのじいちゃんも91才で去年逝ってしまった。

 話しを元に戻そう、国政をホッポリ出して病院に入院した病室で、禁止されている煙草を吸った、
ほとんど頭脳は中学生以下である、大丈夫かニッポン、こういう人が政務官だという。

 もう一人は、ロシアで発行された査証で問題の国を訪ねて言いたい放題の外交をした、一般市民がいた。
この一般市民が元総理大臣だったことのある人物で、その時でさえ国中をかき回して直ぐ放り出して
しまった無責任者である。
 これもこの国と少し違うので記してみたい。“元” は此処ではほとんど使われないし意味が無い、
それがどうした?過去の話だろう?という訳なのだろうと思う。

 訳あって今、明治時代29年から35年までのある衆議院議員の新聞記事のコピーに読み耽って
いるのだが、あの時代の国会議員の凄まじいまでの国家意識に圧倒される。どなたも個人は考えの
なかに無くて、国家の為に市民の為にと行動していることが判る。
 115年も昔の日本のリーダーたちは立派だった、必死だったこともあるだろうが、現在の国政に
かかわる人たち全員に、当時の新聞を読んでもらえば如何であろうか、もしかして読めないかも。
海外に住む野次馬の筆者だが、日本国内にも同様の意見が?

 しかしながら、悪いことばかりがニュースになっているのでも無い事が分かって嬉しかった。
中年が頑張るかなり喜ばしいニュースが出ていた。
 筆者はテレビを見ない、見ないと言うと誤解がありそう、正しくはテレビが無いのである。
じいちゃんばあちゃんと此処で一緒に暮らした20年間は、彼らが見ているテレビが大きな
ボリュームで何時もついていたから、見ないまでも音声は耳に届いていたから、でも今は
その耳に届くテレビも無いのだ。だから、インターネットのニュースが最大の情報源となっている。

 そのインターネットニュース横浜マラソンの記事が載っていた。
俳優鶴見辰吾さん50才、3時間12分58秒(しかも初マラソン)
気象予報士石原良純さん53才3時間56分2秒

10キロコースでは
谷原章介さん42歳1時間9分1秒
間寛平さん65才59分18秒
いずれの方々も職業は俳優さんだと思う。

 加えて筆者の尊敬する友人が、2月の東京マラソンで、何と彼も3時間56分01秒の
大記録を打ち立てたのだ。
 4時間もの間、全速力で走り続けることは無謀とも言える、筆者は情けない弱虫であるから、
何一つ挑戦する勇気は無いけれど、全速力で4時間も走るということ自体が奇跡だと思う。
余程の訓練と万全の準備の賜物だろうが脱帽である。

スゴォ~イ、日本人たちに乾杯!


第2回 2015年3月

 元治2年2月(4月に慶応と改元)生まれの侍を追っかけて、ビクトリア州の最北端まで行って来た。
 明治時代にオーストラリアに、家族4人で移住して来た侍農夫を追っかけて、実に110年も昔の話である。
 もちろん本人は遠の昔に身罷っていないが、2人の お孫さんに,会うことができた。

  何処までも平原の続く大地、連日40度近い気温に焼き付けられて、筆者の頭は朦朧となっていたが、
大河のマリー河が悠然と流れているのを眺めている内に、胸に込み上げてくるものがあった。
不覚にも声が震えてしまったのだ。お孫さんと2人で並んで、黙ってただゆったりと流れる河をしばらく眺めた。
お孫さんも80代ということであったが、実に紳士で言葉は優しく丁寧であった。
「祖父の事ははっきりとは覚えていないが、祖母と2人でよく日本の歌を歌っていた、楽器も上手に弾いていた、
僕たちには言葉は解らなかったが、とても楽しそうだった」 と遠い思い出を引き出すようにゆっくりと話してくれた。

目の前の、この河が氾濫して洪水が何年も続いたりと、立ち続けて襲ってくる試練に
どのようにして自分を励まし続けたのだろうかと、明治人の強烈な精神力に圧倒される
思いで、大河と土手を交互に眺めた。
政府に灌漑の必要性を説きに説いても納得してもらえず、何度申請しても却下され続けて、
当時の白豪主義のオーストラリアで、よくもメゲズに申請し続けたものと、ただただ感心をして
彼が造ったという堤防の上を歩いてみた。
40度近い気温のなかを歩いてみたが、1マイル半(キロ数にすると凡そ2キロと400
メートル)にも及ぶ個人土手を築いてしまった豪傑である。
彼を手伝ったのは、3頭の馬と10才にも満たない長男だったのだから奇跡に近い。
今では土手の名前はもちろんの事、彼の日本名が堂々と道路名になって、交差する
T字路に掲げられていた。

其処に稲を植えて、オーストラリア最初の米の収穫をあげたのであるが、日本では彼は
米は作ったことは無かった。家は農家でさえ無かったのだ。
師範学校を出て教師になり2年ほど教えるが、飽き足らず慶應義塾の予備で2年余り学び、
それからアメリカへ渡り、最終的にペンシルバニア州のウエストミンスター大学で文学士BAの
学位を取得して帰国する。明治29年のことであるから、日本人最初の文学士だったと思われる。

  明治31年に第五回衆議院に当選し、代議士となった年に妻を迎えている、33才の時である。
同じ年に衆議院の解散があり、第六回衆議院選挙にも立候補して当選している。
しかしながら、明治35年の選挙には立候補はせず、1905年(明治38年)40才で家族を連れて
オーストラリアに移住したのである。
東京生まれの長男は5才、長女はまだ2才にも満たない幼児であったことを思えば、この時点で
家族を連れての移住に、如何なる理由も見いだせない気がする。
だが彼の頭の中には、既に大きな図面が描かれていたのかも知れない。ほんとうの理由は
誰にも分からないだろう。
明治という時代が、こんな豪傑を多く輩出したのだろう。

筆者は、2月17日にメルボルンに1泊して、明くる日にスワンヒルへ電車で移動した。
4時間半の旅であったが、窓の外に広がる大地に圧倒されながら眺めていた。
牧草地に多くの牛が放たれている場所や、羊がたくさんほっそりと見えたのは、毛を刈り取られた
後なのだろうか、と思いながら車窓から見える、オレンジ色の景色を見続けた。
土曜日に、スワンヒルからベンディゴに電車で移動してきた、駅に着いた途端に寒気に襲われてしまった。
気温は38度、外は猛烈な暑さなのに筆者は厚着をし胸を抱えて震えていた。
とにかく子供の頃から風邪が怖い弱虫の筆者、泣きたいほど焦ってしまった。シマッタ!風邪を
ひいてしまった。
それでも何とか取材ができたのは、たいへんに優しい女性のお孫さん夫婦に助けられて、
朦朧とした中にも夢のような時間を過ごすことができた。
家に招待してくれて、ピアノ演奏で歓待して下さった、元気だったらと悔しい思いもあったが、
嬉しい時間だった。

  帰宅してからも、風邪に悩まされながらも、ずっと米について考えているが、留守の間に空に
なっている冷蔵庫に食料を買いにスーパーマーケットに行った。
この国では、巨大な二大スーパーの1つに行った。
入口のパンと野菜の売り場の中間に、突然寿司屋がオープンしてキャンペーンを展開していた。
丁度今朝のオープンだと言う。アメリカのチェーン店だと言って試食を勧めてくれた。美味しいのか
不味いのかよく分からなかった、ただ冷たい寿司であった。
このようにあちこちに寿司屋が、オープンする理由がこの国にあるのだ。米の消費が格段に
増えてゆくことは間違い無い。

筆者は、これからますます米を追いかけてゆくことになりそうだ。日本人ほどご飯の味に拘る
民族も居なかろうと、何時も思っているから、甘味、柔らかさ、硬 さ、匂い、輝き、もちろん全体的な味と、
米に関してはなかなかウルサイ民族が、気の遠くなるような年月をかけて育ててきた米、稲作について、
筆者の頼りな い知識からの挑戦が、今始まったばかり。

昨年2014年、商業ベースでのオーストラリアの米作り100周年記念のお祝いをしたのだという。
これからオーストラリアの米が、さまざまに改良されて美味しくなり、日本人の口だけではなく、
あらゆる民族の好きな味を研究し、多種多様に発展するだろう。

こんなに需要があるのだから、米産業界は益々発展するだろう。筆者の友人に、シドニー市内で
日本レストランを6店舗も経営している凄腕がいる。
長年通っているが味が少しも落ちないことが、ザックバランなこの国で不思議なくらいだ。
彼の店で使う米の量は莫大な量だろうと想像はつくが、具体的な数字は浮かばない。
加えて量だけではなく、支払う額も筆者の貧弱な頭脳では計算できそうもないが、
無形世界遺産の日本食、お米、おコメ、ご飯、バンザァ~イ!







独り言(オバサンの独り言)

第1回 2015年2月

   2015年始まったと思ったら、いつの間にかもう2月の中旬に差し掛かっていて、日々が飛んで
ゆくのを実感している。
昨年12月に一緒に食事した東京の友人(役所の偉い人)の見解をお聞きし、かなり年下の彼女の
言が言い当てて冥であった。
自身をオバサンと位置付けたら、途端に視界が広がり、序でに今まで肩にかかっていた力が取れ
て楽になった、と打ち明けてくれたのだ。筆者も大きく頷いていた。

10年ほど前、日本の夏休みにオーストラリアへ短期留学していた学生に「オバサン」と呼ばれて
たいへん驚き、「わたくしはあなたの叔母さんではないわよ、〇〇さんて呼びなさい」と言ったら、
ギョッとなって固まってしまった。
あちらの学生も驚き戸惑いという状況で、言ってしまった筆者はというと、あれっ間違った事言った
かしら?と、こちらはこちらで大いに戸惑ってしまった。
筆者の友人にこの事実を話したら、オバサンって呼ばれたら、はいはいって返事してあげたら、
いいんだよと教えてもらった。
以来、オバサンて呼ばれたらもちろん、はぁ~いという気持ちで返事をしているが、12月の友人
のオバサンの位置づけの話から、更にオバサンが好きになった。

従って、今年のWebは「オバサンの独り言」と題してのんびりと、その都度思った事や、経験した
愉快な事、勇気を出して筆者の失敗談なども記してみたい。
昨年までの2年間の「私の日記帖」と、そんなには変わらないだろうけれど、今年はゆっくりゆき
たい。
筆者の失敗を書いていたら、紙面が直ぐに埋まってしまうだろう、失敗の後の筆者のセリフは
何時も同じで、「日々勉強ですね」と照れながらの独り言になるのだ。
筆者の教師である、我が家のばあちゃんは何時でも言い訳を準備してから、事に当たったそう
だけれど、大いに頷ける。彼女は今年94才になるが、恐ろしく頭は冴えわたり何でも覚えている。
残念ながら歩けないし見えないのだけれど、会話は充分に成立し、今でも筆者の教師を務めている、
立派なものだ。

  比べて筆者の日常は、忘れ物をしては取りに帰り、2~3度は我が家とショッピングセンター、
郵便局、薬局などを往復しているのである。
それならイッソのこと、書いてみたらどうかと思い必要事項を書いてみた。意気揚々と出かけたら、
バッグの中には書いた紙は見当たらなかった。帰宅すると机の上に載っていた。
机の上の白い紙の一番最初の、Rice を見て、あっと思い出した。

日本人ほどご飯の味に拘る民族も居なかろうと思う。筆者などは美味しいご飯が食べたくて、
日本通いをしていると言っても過言では無い。歌舞伎もよいが先ずはご飯だ。筆者の定宿は何処も、
食事が最高によい、秋田の老舗旅館は特別に料理長さんが日替わりで、美味しい食事を提供して
下さり、ご飯も最高!

今、此処でもお米が 「アタラシイ」 オーストラリアでお米が猛烈な勢いで消費される時代が来た?
のではないか。ご飯の大好きな筆者には素晴らしい時代がやって来たと思う。
ショッピングセンターやストリートの角には、お持ち帰りの寿司屋さんが必ずあり、レストランなど
お米を食べる機会が以前に増して多くなっているのは事実である。
筆者の暮らすこの田舎でも似たような現象が起きているのだ。ご飯がどこまで改良され発展する
かは未知数であるが、美味しく食べたいと思うのは日本人に限らないだろうと思う。
我が家のばあちゃんのように、沸騰した湯に米を入れ十五分茹でて、ザルに空けて水道水で
ジャージャーと洗って、はいどうぞと出されても食べられたものではない。水っぽいし固い芯があるし
美味しくないから。
でもオーストラリアで美味しいお米が食べられるようになった。

丁度、110年前の1905年にオーストラリアに移住した侍が、初めて稲作に挑戦し、試作を続けて
ゆくのだが、在ろうことか筆者はこの侍の追っかけを始めてしまった。
明治時代の若者たちの物の考え方が、現在の我々と全く違うことにも驚きまた面白く、あの時代の
魅力であり、当時の躍動感が伝わってくるのも楽しい。
明治20年代から30年代頃の、新聞記事を読んでいると、どなたも個人という考え方は全く無くて、
国家を考えて行動していることに驚いている。もちろん読めない漢字も多くあるし、詩的な文章に驚き、
当時の若者たちの教養の高さも伺い知ることができる。
筆者はこの人物、元治2年(慶応元年)生まれの、明治のツワモノを追っかけて来週から、
Swan Hillに飛ぶことにした。

このトシで、オバサンが追っかけをするとはと、自分でも驚いているが、多少の照れを隠して
未知の世界へ足を運ぶことにした。




松平みな

Copyright © 2011 Mina Matsudaira